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昭和2年の農繁期の賢治の営為によれば(検証6)

2018-10-19 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 今回は、昭和2年の農繁期の賢治の営為によって、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」の検証をしてみたい。

 それでは、昭和2年の農繁期における賢治の主立った営為はどんなものであったのだろうか。『新校本年譜』から以下にそれらを抜き出してみる。
《4月》
四月一日(金)
<〔根を截り〕>(→<〔一昨年四月来たときは〕>)
四月二日(土)
<〔南から また東から〕><ローマンス>
四月四日(月)
<〔古い聖歌と〕>→<〔燕麦の種子をこぼせば〕> <けさホーと縄とをになひ><燕麦播き>
四月五日(火)
<雑草><〔じつに古くさい南京袋で帆をはつて〕>(→<酒買船>)<〔あんまり黒緑なうろこの松の梢なので〕><〔あの雲がアットラクテヴだというのかね〕>(→<春の雲に関するあいまいなる議論>)
四月七日(木)
<〔いま撥ねかへるつちくれの蔭〕><〔扉を推す〕(→<〔あの大もののヨークシャ豚が〕>)
四月八日(金)
<悪意><〔ちゞれてすがすがしい雲の朝〕>
四月九日(土) 冨手一宛 書簡228
四月一〇日(日) 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。
四月一一日(月)
<〔えい木偶のぼう〕><〔いまは燃えつきた瞳も痛み〕><燕麦播き>
四月一三日(水)
<〔日が蔭って〕(→<宅地>)<疑う午>
四月一四日(水) 「岩手日報」に賢治設計の花壇の記事。
四月一八日(月)
<〔午前の仕事のなかばを充たし〕>(→<〔うすく濁った浅葱の水が〕>)
四月一九日(火)
<〔光環ができ〕>(→<〔日に暈ができ〕>)<清潔法施行>
四月二〇日(水)
<午>
四月二一日(木)
<〔町をこめた浅黄いろのもやのなかに〕>(→<〔同心町の夜あけがた〕>)<〔水仙をかつぎ〕>(→<市場帰り>)
四月二二日(金)
<〔青ぞらは〕>
四月二四日(土)
<〔桃いろの〕><〔萱草芽を出すどてと坂〕>
四月二五日(月)
<悍馬><〔川が南の風に逆らって流れてゐるので〕>
四月二六日(火)
<〔いま青い雪菜に〕>(→<〔レアカーを引きナイフをもって〕>)<〔基督再臨〕>
四月二八日(木)
<〔何もかもみんなしくじったのは〕><〔あっちもこっちもこぶしのはなざかり〕>
四月 書簡229
四月三一日? 藤原嘉藤治宛 書簡230
《5月》
五月一日(日)
〈ドラビダ風〉(→<〔一昨年四月来たときは〕>)
五月三日(火)
〈政治家 〉 (→〈〔おい けとばすな〕〉〈〔何と云はれても〕〉〈〔こぶしの咲き〕〉  
五月七日(土日)
〈〔秘事念仏の大元締が〕〉〈〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕〉
五月九日(月)
〈〔銀のモナドのちらばる虚空〕〉(→〈 電車 〉)〈〔芽をだしたために〕〉〈〔苹果のえだを兎に食はれました〕〉 (→〈 開墾地検察〉)〈〔ひわいろの笹で埋めた嶺線に〕〉〈〔墓地をすっかりsquareにして〕〉(→〈 開墾地検察〉)〈〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕〉
五月一二日(木)
〈〔失せたと思ったアンテリナムが〕〉〈〔さっきは陽が〕〉〈〔今日こそわたくしは〕〉 (→〈〔今日こそわたくしは〕〉)
五月一三日(金)
〈鬼語四〉  
五月一四日(土)
〈〔エレキの雲がばしゃばしゃ飛んで〕〉(→〈〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕〉)
五月一五日(日)
〈〔すがれのち萓を〕〉  
五月一九日(木)
〈科学に関する流言〉
五月末頃 花巻温泉南斜花壇に花の苗を植える。駅前の駐在所で捕まる。
《6月》
六月一日(水)
〈〔わたくしどもは〕〉〈峠の上で雨雲に云ふ〉(→〈県技師の雲に対するステートメント〉)〈鉱山駅〉〈装景家と助手との対話〉
六月一二日(日)
〈〔青ぞらのはてのはて〕〉
六月一三日(月)〈〔わたくしは今日死ぬのであるか〕〉(→〈一〇七五囈語〉)〈一〇七六 囈語〉
六月二五日(土) 太田クヮルテットに祝電を打つ。
六月三〇日(木) 〈〔その青じろいそらのしたを〕〉(→〈金策〉)〈〔金策も尽きはてたいまごろ〕〉(→〈金策〉)
《7月》
七月一日(水) 〈〔わたくしが ちゃうどあなたのいまの椅子に居て〕〉(→〈僚友〉)
七月七日(日) 〈〔栗の木花さき〕〉(→〔さわやかに刈られる蘆や〕〉
七月一〇日(日) 〈〔沼のしづかな日照り雨のなかで〉〈〔あすこの田はねえ〕〉
七月一四日(日)〈〔南からまた西南から〕〉(→<和風は河谷いっぱいに吹く>)
七月中旬 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「肥料設計ニヨル万一ノ損失は辨償スベシ」
 昔から岩手県では稲作に関して旱魃に凶作なし<*2>といい、多雨冷温のとき<*3>は凶作になる。
七月一八日(月) 盛岡測候所に調査に出向く(書簡231)。
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状(書簡231)。
 福井規矩三の「測候所と宮沢君」によれば、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
七月二四日(日)〈〔ひとはすでに二千年から〕〉〈〔午はつかれて塚にねむれば〕〉
《8月》
八月八日(月) 松田甚次郎来訪 
八月一五日(月)〈増水〉(前年の誤記か?)
八月一六日(火)〈ダリヤ品評会席上〉
八月中旬〔推定〕〈野の師父〉
八月二〇日(土)〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〈〔ぢしばりの蔓〕〉(→〈〔もうはたらくな〕〉)〈祈り〉〈路を問ふ〉(→〈〔二時がこんなに暗いのは〕〉)〈〔何をやっても間に合はない〕〉
八月「文語詩」ノートに「八月、藤原ノ家ニ押シカケ来ル」のメモ。
秋〔推定〕森佐一「追憶記」によると「一九二八年の秋の日」、村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性に会った。家へつくと「今途中で会つたでせう、女臭くていかんですよ……」と窓をあけ放していて、
《9月》
九月一六日(金)〈藤根禁酒会へ贈る〉 
九月〈華麗樹種品評会〉
《10月》
一〇月二一日(金) 高橋慶吾のための職業として、レコードの交換会を考え、知友への紹介と趣意を書き、自分のレコードを提供する(書簡232)。
一〇月頃 石田興平が訪れた。刈屋主計と花巻温泉に行く。

 さて、これらの中に、仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」の反例となる事柄はあるだろうか。もちろん何一つ見つからない。言い換えれば、
 昭和2年の農繁期の賢治の営為によって、仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」を棄却させることはできない。
ということになる。

 よって、ここまでの考察による限り、この仮説は検証に耐えているということになる。

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。

<*2:投稿者註> たしかに、「旱魃に凶作なし」とか「ひでりに不作なし」はたまた「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」という俚諺、言い伝えがあるが、いつでもそうであるとは限らない。実際、前年の大正15年は稗貫も旱魃傾向だったが、特に隣の紫波郡は飢饉一歩手前とも言えるほどの大干魃だった(残念ながら、このことに関して論じている賢治研究家を、私は誰一人として未だ見つけずにいる)。 

<*3:投稿者註> 「昭和二年は多雨冷温」とか「昭和二年はひどい凶作」は誤認である。
 不思議なことに、昭和2年の賢治と稲作に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いて述べている。
(1) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:投稿者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。
      <『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p>
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(投稿者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
      <同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
      <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
      <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
      <『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
      <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 昭和二年(1927 年)は未曽有(ママ)の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました……」とある。
       <帝京平成大学石井竹夫准教授の論文より>
(7) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。

      <『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(8) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
      <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
 つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。

 しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それ故、私はその典拠を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
 (昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年)317p>
と述べているから、これが、あるいは引例の「孫引き」がその典拠と言えそうだ(私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは見当たらないからだ。なお、裏付けも取らずに、賢治の詩に詠まれていることを歴史的事実と単純に還元している人もあるようだが、もちろんそんなことは許されない)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 ところが、先の『阿部晁の家政日誌』のみならず福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)「稻作期間豊凶氣溫」(盛岡測候所、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)、そして、『岩手日報』の県米実収高の記事等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを実証できる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 だからおそらく、常識的に考えて、『新校本年譜』等はこの福井の証言の裏付けを取っていなかったということになろう。また、おのずから、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」訳でもなければ「昭和二年は未曾有の大凶作」だった訳でもなかったので、前掲の断定表現の引用文も同様に事実誤認だったということになり、これらの論考等においてこの誤認を含む個所は当然論理が破綻してしまい、修正が迫られることになるのではなかろうか。(詳細は、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証的に考察し、それを詳述してあるので参照されたい)

 なお、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫が冷害だった年は全くなかったことは農学博士ト蔵建治氏も次のように、
 この物語(投稿者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(投稿者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
           <『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
と指摘している通りである。
 また、昭和六年は確かに岩手県全体ではかなりの冷害だったが、稗貫はそれどころか平年作以上であったことは下掲の《表2 当時の米の反当収量》

から明らかである。それ故、賢治は実質的には冷害を経験したことは結局ないとも言える。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれまた実はできなかったのだった。つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は客観的には、
    ヒデリノトキハナミダヲナガシ
というようなことはしなかったし、
    サムサノナツハオロオロアルキ
しようにもそのようなことはできなかったのだった。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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