みちのくの山野草

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森の「下根子桜訪問」自体が虚構

2024-02-09 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露





















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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 森の「下根子桜訪問」自体が虚構
 さて、森が「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかった理由は、森の病状がかなり思わしくなかったことが当時かなりの程度世間に知られていたことにもあったからに違いないと私は直感した。そこでそのことを以下に検証してみたい。
◇昭和2年の新聞報道によれば
 その頃の森は生出仁と共に「岩手詩人協会」を設立し、機関誌『貌』を創刊するなどの活躍をしていたから、その存在がかなり世に知られていたと思われる。そこで、当時の『岩手日報』を少し調べてみる(なお、以下の傍線〝   〟は筆者による)。
♦昭和2年4月7日付『岩手日報』
 「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
 岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
 その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
 その時の一人森君は今、宿痾の爲、その京都の樣な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以來詩作は日本詩にもちよいちよい發表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに歸鄕されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(筆者略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
♦昭和2年5月19日付『岩手日報』
 「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
 二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
 仙臺の事、メーデーの事、同人雜誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸鄕してる森君の事、幹次さんの事
♦昭和2年6月5日付『岩手日報』
 「『牧草』讀後感」 下山清
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
♦昭和2年6月16日付『岩手日報』
 「郷愁雑筆」 上田智紗都
 五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(筆者略)… 
 いつも考へてゐながら森佐一には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。         
(終)
 したがってこれらの一連の報道からは、森は病気のために帰郷し、重病だったので病臥していたことが当時かなり世に知られたということになろう。しかも森は、「岩手詩人協会」を設立して同人誌「貌」を発行していたということだから交遊関係も広く、「一九二七年」頃の森は長期療養中だったことは詩友の間では特によく知られていたことがこれで確実だろう。
 しかも、森からはさんざん世話になったあの下山清が「森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやうく死に瀕し、盛岡病院に入院した」と言っているのだから、これは事実であったであろうと判断できる。また、
脚気衝心:脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来たし、多くは苦悶して死に至る。(『広辞苑 第二版』より)
ということだから、
   当時の森荘已池はかなり重篤であった。
とも言えよう。
 ところがこの♦昭和2年6月16日付『岩手日報』の記事以降、森の消息に関する記事はぷっつりと途絶えてしまう(見落としたのだろうか)。一方で、前掲の『森荘已池年譜』における昭和2年8月以降の主な記載事項は以下のとおりである。
♦8月10日 (劇)愛欲を見る(岩手日報)
♦9月1日 (詩)枯れる(銅鑼 №12)
♦9月8日 農民劇指導原理(岩手日報)
♦10月7日 第一回素顔社(岩手日報)
♦10月13日 友へ送る(上)(岩手日報)
♦10月14日 友へ送る(下)(岩手日報)
 そこで、『岩手日報』の実際の記事をそれぞれについて見てみると、次ようなことなどがそこには載っていた。
♦8月10日付『岩手日報』
 「愛欲を見る」 森佐一
 確か、第一幕が終つた時と思ふ。小泉一郎氏と阿部康蔵氏から、何か、今夜の印象を、日報に書けと云はれた。…(筆者略)…友人たちよ自分はうそはつかない。ほんとうにいゝものだ。ぜひ見に行つてくれ。細評はいづれ後にして、でひ((ママ))行きたまへとだけぜ筆((ママ))をおかう。
♦9月8日付『岩手日報』
 「農民劇指導原理」 森佐一
   序
 近頃、縣下でもぽつぽつ、農民劇に就いての聲が聞かれるやうになつた。時節柄、誠に御同慶の至りである。が、大抵、しつかりと問題の見通しがついてゐないやうである。過日、本紙に出た高橋剛君の文が、その人々の代表的な考え方だとすれば、吾が国農民運動の現段階の要求する農民劇とは餘程の距離があるやうである。
♦10月7日付『岩手日報』
 「第一回素顏社展の印象」 森佐一
 スケッチ板五六枚描き、皆割つて了つたといふ經歴より持ち合さない私が、素顏社展の印象記を書くのは隨分をこがましい。が私は照井莊助君のあの眞面目さと熱に對して、どうしても黙つてをられない氣持を持つてゐる。
♦10月13日付『岩手日報』
 「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」 森佐一
 『銅鑼』同人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
 彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。彼はまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自稱しながら、文學靑年をあつめて東京にゐて、雜誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
 作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
 みつちやんと
 やつちやんは
 蓮花田のなかで
 まるまるをした。
   …(筆者略)…
 かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮澤賢治詩集『春と修羅』の中の、無聲慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に觸れるのである。
♦10月14日付『岩手日報』
 「友へ送る―彼の詩集に就いて―(下)」 森佐一
  (内容省略)  
(終)
 以上が、昭和2年6月中旬~12月末日までの『岩手日報』の森関連の記事の全てである(と思われる)。したがって、この期間の森の病状や回復状況に関する情報は全く得られないが、少なくとも執筆活動等はできたようだということがわかる。
 さて、ではこれらのことを少し考察をしてみよう。まず8月10日付及び10月7日付『岩手日報』の記事についてだが、前者からは少なくとも森はこのとき実際に演劇「愛欲」を観に行っていたであろうことがわかるし、後者からは実際森がその展示会に行っていると判断できる。したがってこの頃になると、森は長期療養中の身とはいえ、多少は出歩けるほどの病状までには回復していたということになろう。
 次に、9月8日付『岩手日報』に寄稿している森の「農民劇指導原理」の文中の「過日、本紙に出た高橋剛君の文云々」という記述からは、病臥中の森は『岩手日報』にはしっかりと目を通していたであろうことが窺える。なぜならば、確かに約一ヶ月前の同紙には高橋剛の「農民劇に就いて」という連載記事が載っているからである。
 ところで、この9月8日付『岩手日報』に載った森の「農民劇指導原理」に関しては、その一ヶ月前の8月8日には山形の新庄から松田甚次郎がわざわざ下根子桜を訪ねて来て、初めて上演する農民劇について、賢治からは「色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて」もらったということがよく知られているから、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、そのような話が森と賢治との間に交わされていた可能性が頗る高いはずだが、そのことはこの寄稿では全く触れられていない。
 さらには、10月13日、14日付『岩手日報』では、森は農民詩人・坂本遼の詩集『たんぽぽ』を激賞していることがわかる。そして、その批評の最後に賢治の名が出てきているが、もし森が「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねた」とすれば、少なくとも二人の間でそのことに関して何らかのことを話題にしていたはずだ。とりわけ、当時の賢治は「農民詩」といってもいいような詩を沢山詠んでいた頃だからである。ところが「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」でも「同(下)」でもそのことに関しては全く触れられていない。
 しかも、8月28日付『岩手日報』に載っている齋藤弘道の「「くぬぎ」第三號瞥見」にはその最後に「佐々木喜善氏、宮澤賢治氏は健在なりや」とあるから、当時『岩手日報』にはしっかりと目を通していたと判断できる森はこの記事を見逃すはずもなく、もし森が「一九二七年の秋の日」に下根子を訪ねたということであれば、日頃より賢治を敬愛していた森は、「いや賢治は健在なり」というようなことを一連の寄稿において必ずや触れていたはずだが、それがない。
 以上、もし森が病身を押して「一九二七年の秋の日」に下根子桜を訪ねたのであったということであれば、その時のことを森が他の寄稿と同様に『岩手日報』に寄せない訳はないと思われるが、そのような投稿は一つも見つからないし、一連の寄稿の中でさえもそのことに一言も言及していない。
 したがって、当時の『岩手日報』のこれらの記事から判断しても、この頃の森はまだまだ重篤であったがため、多少の外出はすることができてもそれはせいぜい盛岡近辺だけであり、そこからわざわざ花巻までやって来てしかも下根子桜で一泊できるようなところまでは回復していなかったようだ。
 どうやら、森が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」ということはほぼあり得なかったようだと判断した方が妥当なようだ。
◇不自然な「一九二八年」の表記
 私は時々早池峰などに登る。ある時、山仲間の荒木と吉田と三人でその計画を立て終えた際のことである。
        ‡‡‡‡
吉田 ところで鈴木はこの前、森が「一九二七年の秋の日」に下根子桜を訪ねたということはほぼあり得ないとか、「一九二七年の秋」と書くわけにはいかなかったとか言ってたよな。その理由わかったか。
鈴木 森がそのように書くわけにはいかなかったようだというところまではわかったが、よくわからん。
吉田 それじゃいいヒントを教えてやろうか。
鈴木 おぉ、ありがたい。頼む。
吉田 それはさ、『宮澤賢治と三人の女性』の中で、西暦と和暦がどう使い分けられているかを調べてみることだ。
鈴木 うん?どういうことだ。
荒木 論より証拠だ。やってみるべ。
鈴木 それじゃ、実際に調べてみるとするか。まずは「Ⅰ 挽歌を中心に」においてだ。
 24p :大正六、七年頃
 〃 :昭和十八年十月
 〃 :大正十二年
 27p :明治三十一年十一月五日
 30p :大正二年
 33p :明治四十五年の一月
 34p :大正二年
 36p :大正四年四月
 37p :大正七年十一月
 〃 :大正七年十二月二十七日
 42p :昭和十四年十一月二十三日
 52p :大正八年二月三日
 〃 :大正七年
 53p :大正九年九月二十九日
 〃 :大正十年七月
 〃 :明治十五年八月
 〃 :昭和二十三年
 54p :大正十一年
 61p :大正十年の九月
 63p :昭和十四年
となっている。
 それでは次は「Ⅱ 昭和六年七月七日の日記」についてだ。
 71p :昭和六年七月七日
 72p :大正十五年
 74p :一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねた……
 77p :大正十五年
 93p :昭和三年
 〃 :昭和三年八月
 96p :昭和六年
 104p:昭和六年七月七日
となっている。
 そして最後の「Ⅲ『三原三部』の人」についてだが、
 114p:昭和十五年十二月十五日
 〃 :昭和十六年
 144p:昭和十五年の十一月
 〃 :昭和八年
 〃 :昭和三年六月十三日
 146p:昭和三年
 153p:昭和三年六月十五日
 156p:昭和十六年一月二十九日
 159p:(昭和)十六年二月十七日
 180p:昭和二十一年
となっている。…なるほどな、そういうことだったのか。ありがとう、吉田。大分見えてきたよ。
荒木 そうか、西暦表記は一個所しかなかったんだ。それも例の「一九二八年」の個所だけだったんだ。
鈴木 しかも、同じ年のことなのに他の個所では和暦の「昭和三年」を使っているというのに、だ。それにしても吉田は鋭い、良くそんなところに気付いたな。
吉田 じゃじゃ、照れるな。森は、困っていたんだよおそらく。何か心に引っ掛かることがあってここだけは「西暦」にしたというあたりだろう。
鈴木 それじゃそこを明らかにするために、今までのことを少しまとめてみよう。
(1) 森の「昭和六年七月七日の日記」における、露に関する記述内容には信憑性が欠けるものがある。
(2) 森は昭和2年当時、心臓脚気等で長期療養中だったため、昭和2年の秋に下根子桜を訪問しようとすることが容易な状態にはなかった。
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという露本人の証言がある。
(4) 露からの高橋慶吾宛葉書によれば、昭和2年6月あたりから賢治は露のことを拒否し始めたことが窺える。
となろう。
 したがって、昭和2年の秋の日に森が下根子桜を訪問することはほぼ無理だった。ましてや、その際に森が露にすれ違ったということは考えにくいと判断できる。
吉田 かといって、森が下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違ったということが大正15年の秋であったという可能性もほぼゼロだ。何となれば、森が心臓脚気と結核性肋膜炎を患って岩手に戻ったのは大正15年11月下旬だから、その直後に下根子桜までわざわざ泊まりに来ることは実際的にまずあり得ない。しかも直ぐにその年の秋は終わってしまう時期だったからだ。
荒木 もちろんこの「下根子桜訪問」が昭和3年の秋ではないことも確かだべ。その頃賢治はもうそこにはいなかったのだから。
鈴木 ならば、昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』に所収されている森の「追憶記」の中に、「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と記述されている「下根子桜訪問」はいつ行われたのか。もはや、大正15年の秋の日でも、昭和2年の秋の日でも、はたまた昭和3年の秋の日でもほぼなさそうだ、ということになる。
荒木 もちろん、これらの年以外の秋の日の訪問もあり得ないことは明らか。賢治が下根子桜に住まっていたのは大正15年春~昭和3年の夏までだからだ。
吉田 ではいつ件の「下根子桜訪問」が行われたのかというと、いわゆる「羅須地人協会時代」の大正15年春~昭和3年の夏の約2年4ヶ月間内の「秋」でない季節ということも考えられないわけではないが、その可能性は限りなくゼロに近いだろう。
 なぜなら、普通「一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた」と表現する場合に、年号の間違いは起こり得ても季節の「秋」についてまでは間違えることが少なかろう。まして、先の「追想記」を森が書いた時期はその「下根子桜訪問」から数年しか経っていないのだから、なおさらに。
荒木 ということはやはり、件の森の「下根子桜訪問」はほぼあり得ないし、自ずから、「下根子桜訪問」の際に森が露とすれ違ったということも限りなく虚構に近いということか。
鈴木 私が騙されるのは当然としても、どうやら上田もそうだったということかもしれんな。
荒木 うん?
鈴木 上田の件の論文の中に、
 その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。なお、彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』(七四ページ、七五ページ)に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。國道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雜木の混有林に入る。靜かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、親しそうな堰の水音がした。
 ふと向こうから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。(濕った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)私は目を眞直ぐにあげて、そのひとを見た。二十二三歳の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。私はその顔を見て、異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頰がかっかっと燃えるように赤かった。全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頰はりんごのように健康な色だった。かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上氣するものではなかった。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短大)77pより>
という個所があるのだが、この「同氏」とは森のことであり、上田も「この個所だけ」は森の「直接の見聞に基づいて書いたもの」であると思わせられていた可能性がある、ということさ。
荒木 そうか、上田は森に嵌められたかもしれないということな。まあ、普通は誰でも「この個所だけ」は事実だったと素直に信じるだろうけどさ。
鈴木 さて、これで昭和2年、すなわち一九二七年の秋の日に森が下根子桜を訪問することはほぼ無理だった。まして、その際に森が露とすれ違ったということは考えにくいということがわかったし、自ずから
 森の件の「下根子桜訪問」自体が虚構であった可能性が頗る高い。
ということもまたわかった。
荒木 それにしても、森ならば「一九二八年の秋の日」に下根子桜の賢治の許を訪れることができないということは当然わかっていたはずなのに、なぜ「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃道に入つて行くと稲田のつきるところから云々」としたのだろうか。
吉田 話は簡単で、一九二七年の森は心臓脚気などで療養中であることが世間に知られていたから、森が「私は一九二七年の秋の日に下根子を訪ねたのであつた」ともししたならば、それは明らかな嘘だと直ぐばれることを森自身が一番よく知っていただろうし、そのことを恐れたためだろう。
荒木 しかし「一九二八年の秋の日」としたところで、それもあり得ないことと直ぐばれるべ。
鈴木 いや、その頃に賢治が下根子桜から豊沢の実家に戻っていたということはあの当時はまだ世に知られていなかっただろうから、ばれるも何も。なにしろ、昭和3年の8月10日以降、賢治は実家に身を潜めていたとも言えるのだから。
荒木 そういえばそうだった。賢治はその頃岩手県下に吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していた、ということを鈴木は『羅須地人協会の終焉-その真実-』で展開していたもんな。
◇思考実験〈「下根子桜訪問」自体が虚構〉
鈴木 まあ、私見だけどね。ところで、森荘已池は、
 賢治がちゑさんと一方的な見合をし、また大島を訪ねた時代と、Tとよぶ女性が羅須地人協会の家に、しげしげと訪ねた時代とが同じだということは注意してよいことであろう。一方を極力拒否しながら一方を結婚の対象に考えていることによつて、私たちは、一方が、このましくない女性であり、一方はこのましい女性であることを知るのに困難はしないはずである。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)174pより>
とも述べている。もちろんこのTとは露のことであり、彼は露のことを「このましくない女性」としている。
荒木 だから、森は始めから露のことを勝手に決めつけた上で「昭和六年七月七日の日記」を書いていたことは明らかだ。
鈴木 しかも知ってのとおり、賢治と私とを結びつけることは絶対止めて下さいとちゑは森に懇願しているというのに、森は無理矢理結びつけようとした。実際それは、『宮澤賢治と三人の女性』の端書きとも言える「宮沢賢治をしるために」において、
 宮沢賢治と、もつともちかいかんけいにあつた妹とし子、宮沢賢治と結婚したかつた女性、宮沢賢治が結婚したかつた女性との三人について、傳記的にまとめて、考えてみたものである。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)3p~より>
と森が説明していることからも窺える。
吉田 だから森は始めから、
   露 =「宮沢賢治と結婚したかつた女性」
   ちゑ=「宮沢賢治が結婚したかつた女性」
と決めつけてスタートし、同書の中で
   露 =「このましくない女性」=<悪女>
   ちゑ=「このましい女性」=<聖女>
という構図を定着させようとしたのかもしれないな。
荒木 そっか、森は始めっから悪意と思惑とを持っていて、この構図を定着させようという下心があったということだべ。
吉田 おっと、荒木の際どい表現も今出たところだし、しかしその可能性も探らねばならないから、ここからは発想と推論が柔軟になる思考実験に切り替える必要がありそうだな。
荒木 おお、それもそうだな。
 待て、待て…… あるいは、当時『イーハトーヴォ創刊號』に露に関するゴシップ仕立ての「賢治先生」が載っているように、一般読者に興味関心を持たせるためにゴシップも書こうと思い立ったのかもしれんぞ。
吉田 そんなことなども狙って同書に露のことも大いに書こうと思っていたことはたしかだろう。実際それは露を含めた三人の女性の三本仕立ての本になっているし、露関連についてはとても検証したものとも、裏付けを取ったものとも思えんことをあたかもそれを見ていたかの如く書き連ねた文章があちこちに散在しているからな。おそらく、森は書いているうちに作家の「性」に抗えなくなってしまって、ついついあれこれフィクションを交えてしまったということだろう。
荒木 例えば、「下根子桜訪問」をでっち上げ、さらにはその際に露とすれ違ったと虚構した。
鈴木 とはいっても、それをいつにするかを迷った。全くのでたらめの時期にはできない……。
荒木 そうか、閃いたぞ。実は、森は病が癒えて昭和3年6月には『岩手日報社』に入社もできたし、昭和3年の秋には花巻ぐらいまでならば出がけることができるまでに快復したので、「一九二八年の秋の日」に岩手日報入社の挨拶旁々花巻の賢治の実家に訪ねて来たことが実際にあったのだ。
吉田 そうだよな、冷静に考えてみれば昭和3年当時病の癒えた森が賢治の許を訪れなかったということはあり得ん。東京に住んでいた菊池武雄ですら豊沢町に戻っていた賢治を訪ねて行って、しかも賢治とは結局面会できなかったということがかつてあったのだから、その噂が森の耳に届かないはずはなかろう。
鈴木 ただし、賢治は当時凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していたから、その訪問を森は公的には一切書けなかった。
荒木 一方先にわかったように、森の場合公的にはその時期を「昭和2年の秋」とすることもはたまた「大正15年の秋」とすることも無理だった。そこで、ついついその期日を森がこっそりと豊沢町に賢治を訪ねていた「昭和3年の秋の日」と設定したというわけさ。
鈴木 そうだよな、人間の心理として全くでたらめな期日をでっちあげることは難しいからな。
吉田 あとは、「下根子桜訪問」及びその際の「露との遭遇」は全て虚構で、「このましくない女性」という位置づけで、佐藤通雅氏の表現を借りれば「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作」をしてしまった。
鈴木 とはいえ、森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった。だから西暦表現を用いてここだけは「一九二八年の秋の日」とした、という次第か。これが、以前吉田が、『何か心に引っ掛かることがあってここだけは「西暦」にしたというあたりだろう』と示唆した意味だったのだな。
荒木 なあるほど。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけは西暦で「一九二八年」にしたのはそういう心理が働いていたのか。
鈴木 だからかたくなに森は件の下根子桜訪問時期を、『宮澤賢治追悼』(次郎社、昭9)でも『宮澤賢治研究』(十字屋書店、昭14)でも『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房、昭24)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、昭49)でも皆「一九二八年の秋」としていたんだ。
荒木 うん?それじゃどうして『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部、昭63)では「大正15年の秋」としたんだ?
鈴木 いや先に引用したように、その日のことは「大正15年の秋の日」とはせずに、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった」と森は表現している。
吉田 それは苦肉の策さ。『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃になると「旧校本年譜」も既に定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜にいないことは遍く知れ渡ってしまった。そこでもし、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」としたならばそれは破綻を来していることが容易に指摘されてしまう時代になってしまったためだよ。
荒木 さりとて、森自身はそれを直ぐさま「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き替えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったからそれは無理。そこで残された「大正15年の秋の日」とするしかなかったというわけか。
吉田 しかも、もうこれ以上あれこれ穿鑿されることを嫌って、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、ぼやかしたのじゃなかろか。
荒木 なるほど。さっき鈴木が言ったところの、『森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった』という心理がここでも同じように働いていたのか。そうか、このように考えればほとんどのことが辻褄が合うな。
吉田 まあ、あくまでも思考実験上でだけのことだけどな。とはいえ、かなり説得力はありそうだから一つの可能性としては棄てがたい。
 しかも今までの僕らの検証によれば、「森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった可能性が極めて高い」ことがわかっているから、もはやこうなれば
 森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。……③
と断定してもよかろう。
荒木 そうか、件の「下根子桜訪問」は全てが虚構だった、これが今回の思考実験の結果ということか。
鈴木 実はあからさまには言ってこなかったが、私自身は今回も基本的には「仮説・検証型」の考察を行ってきたつもりだった。そして何を隠そう、その私の仮説は今吉田がいみじくも言った〈③〉だったのだ。
吉田 だろ、それは僕も薄々感じてた。
鈴木 そしてここまでの検証の結果、この仮説〈③〉の反例となるものは今のところ何一つない。一方で、
現通説:昭和2年の秋の日森は下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違った。
の反例や反例らしきものが幾つか見つかったということこそあれ、現通説を裏付ける確たる資料も証言も森自身のもの以外は今のところないから現通説は危うい。となれば、仮説〈③〉の反例が見つかるまでは、仮説〈③〉の方が現時点では最も妥当な説だと言える。
荒木 ところで何だっけ、現通説の反例って?
鈴木 一つは他でもない先に荒木も挙げた、例の
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという本人の証言。
そして二つ目が、それこそ森自身の証言
  一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。
があるじゃないか。
荒木 そうか、現時点で反例が2つもあるということであれば、現通説は砂上の楼閣。それよりは現時点では反例のないこちらの仮説
 森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に捏造であった。
が成り立つとするのが遙かに妥当だということな。
鈴木 おいおいちょっと待て、私は「捏造」とは言っていないぞ、「虚構」だぞ。
吉田 確かに捏造と言うのはちょっときついが、件の「下根子桜訪問」は「捏造」であった、と言った方がふさわしいのかもしれんな。なにしろ高瀬露の人格と尊厳をとことん傷つけてしまったのだからな。
 でももしかすると、それこそ森は日記をつけていたようだから、そのうちに森の『昭和三年の日記』が見つかって、仮説〈③〉の反例がそこから見つかるかもしれんが、その時は荒木が僕らを代表して謝ればいい。
荒木 おいおい、梯子を外すなよ。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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