《創られた賢治から愛すべき賢治に》
さて、私としては 梅野健造の証言に従えば、昭和3年2月頃の賢治は、労農運動に関わって行う活動が“羅須地人協会の活動”であると認識していた。
という可能性が否定できなくなったきた上に、当時の賢治のそのような具体的な活動を伊藤与蔵が証言していることことを合わせてみれば、ますますそのような認識を当時の賢治はしていたのではなかろうかと思ってしまう。名須川溢男のある断定
そんな折、名須川溢男の論文「賢治と労農党」を見直してみたならば特に次の名須川の断定、
肥料設計所も昭和三年三月で、羅須地人協会の活動とともに、やめなければならなくなった。
<『鑑賞日本現代文学講座⑭宮沢賢治』(原子朗編著、角川書店)269pより>が妙に引っかかった。つまり、
賢治は少なくと昭和3年3月以前までは「羅須地人協会の活動」を行っていた。………③
ということを意味する名須川のこの断定に私はこだわり出した。それは、先に述べた 昭和3年2月頃に賢治が認識していた“羅須地人協会の活動”= 労農運動に関わって行う賢治の活動………②
をこの断定はまさしく裏付けていることになるのではなかろうかと、私には思えたからである。とはいえ、名須川はそこではその断定の根拠は明示していないので、彼は一帯何を根拠にしてこのように断定したのだろうかという問題点もそこはあるのだが。道又力氏の見方
そんなところにさらに、新たに道又力氏の次のような見方を知った。
協会そのものも花巻警察に目を付けられていた。花巻には左翼唯一の合法政党・労農党の支部があり、賢治はそのシンパだった。昭和三年三月、当局の命令で労農党は解散。協会の活動が鈍っていったのは、この直後からである。
<平成26年4月16日付『岩手日報』連載「文學の國いわて 64」より>そうか、道又氏も羅須地人協会の活動が鈍っていったのはやはり昭和三年三月とみているのか。私は目から鱗が落ちたような気がした。何のことはない、私は今まで、羅須地人協会の活動はせいぜい昭和2年の4月頃までしかなされていなかったとばかり思い込んでいたのかもしれない。
こうなると、この度梅野健造の証言を知り、改めて名須川溢男の見方を知って先の“③”もありかなと思えるようになってきていたのだが、さらに道又氏のこのような見方を知ったので、まずは“③”という見方をしている人が少なからずいるのだと認識を改めたほうがよさそうだ。そして同時に、
昭和3年3月、羅須地人協会の活動は終焉を迎えた。………④
ということが歴史的事実であった可能性も充分にあり得るのだと私は認識することした。ついては、道又氏がなぜこのような見方をしたのか、その根拠が知りたいものだ。
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