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みちのくの山野草

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赤化思想の持ち主という風評

2019-02-17 10:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、〝甚次郎の農法こそふさわしいものだった〟でも触れたように、松田甚次郎は「鳥越倶楽部」を結成して、農村劇の公演みならず、
・緬羊の飼育
・養蜂
・耕馬の育成
・サイロの建設と活用
・養鶏
・山岳立体農業
・麹、醤油、澱粉、味噌、水飴、缶詰作り
・ホームスパン(松田式紡毛機を発明)
等にも取り組むなど、八面六臂の活躍をしていた。その他にも、
・禁酒運動
・婦人愛護運動
にも熱心に取り組んでいたということを、『土に叫ぶ』等によって知ることができる。

 すると、これは世の常で、甚次郎等に対するやっかみや、そねみを周りから買ってしまう。このことに関しては例えば、
 世評 かうなるとこんどは世間がうるさくなるもので、「鳥越の松田の奴は共働だ、共働だと言つてるが、農村は都會に搾取され、地主は小作人を搾取し、女性は勿論男性まで蹂躙して居るのだ」等と言はれ、それに「農村婦人解放だ」、「農民自治運動だ」とか言つては、東京の色々な先生が講演に來るさうだ。共働組合を組織し、共同購入や麹や醤油共同製造をやる。畑の共同耕作もやつてるさうだ。それに昭和七年十二月の全國篤農青靑大會に出席して部落施設の協議の時、こんなことを演説したそうだ。―― 私が実際共同施設としてどうしてもやらねばならんと思つて硏究実驗をしてそれをいざ實行しようとなると法律にぶつかつて阻止される。醸造法、製糖法、劇薬、發電、牛乳、等の實例を挙げ、これを實行せんとしても不可能となることが多い。…(投稿者略)…その擧げ句の果ては猫と雖も、天井から眞逆樣に人間の咽喉笛をねらつて喰ひかゝらないとはいはれない。――等といふことを平氣で東京の眞中で演説する位であるから、彼は赤化思想を持つて色んな策動をしてゐるのではないか、といふ評になつたものだ。すするとこんどは警察の方でも注意して、時々巡査や特高係が訪問者の一人となつてやつて來た。かうなると家族の者が、家名にかかはることだから一大事であると心配して、或夜兩親から叱責されたことがあつたが、自分はまだまだやらねばならない計畫もあるし、總てが未完成であるから、どうしてももつよもつと社會に、農村文化に奉仕せねばならんと新しく心に誓つた。
            〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)81p~〉
と甚次郎自身が述懐していた(となれば、このような世評が立ったのは、昭和7年末ことであったとなるのだろうか)。特に、当時、「赤化思想の持ち主という風評」が立ってしまったことによって、甚次郎がそれまで取り組んできた活動に支障を来したであろうことは明らか。

 すると思い出すのが、まず昭和2年2月1日付『岩手日報』の「農村文化の創造に努む」という見出しの記事だ。そしてこの新聞報道により、賢治はどうしたかというと、
 羅須地人協会の活動が『岩手日報』によって批判的に報道されたために、昭和二年にははやくも挫折せざるを得なかった。
              <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)289pより>
 残された道は徹底した奉仕活動だった。羅須地人協会開設当初の、…(投稿者略)…多彩な活動は、思想問題にうるさくなった当時の情勢からしだいに不活発となり、肥料設計を中心にした農事相談に収斂していく。
             <『宮沢賢治・第六号』(洋々社)所収「「羅須地人協会」賢治と農民」(川田信夫著)77pより>
 協会員伊藤克己によると、賢治は「其の晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては済まない」と言いオーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)343pより>
ということだから、この報道を境にして、つまり昭和2年の2月以降、従前の「羅須地人協会」の活動は次第に衰退していったと言えるようだ。
 それからもう一つ、翌昭和3年は、岩手県で初めて行われる「陸軍特別大演習」を前にして県下に凄まじい「アカ狩り」が吹き荒れたわけだが、その際に賢治はどうしたかというということだ。このことについては、拙著『本統の賢治と本当の露』等において公にした様に、
〈仮説6〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。また、この大演習の初日10月6日には花巻日居城野で御野立があったわけだが、この際、10月3日に南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将が賢治の母の実家「宮善」宅にやって来て宿泊したという(昭和3年10月4日付『岩手日報』)ことだから、然るべき筋からの配慮が父政次郎に対してもあったであろう。そしてもちろん、この仮説の反例は一つも見つかっていないから検証がなされたということになる。
 よって今後この反例が見つからない限り、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからということよりは、本当のところは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。これでまた一つ、隠されていた真実が明らかになったと言える。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)87p~〉
ということを、私実証できている。

 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治もいわゆる「赤化思想の持ち主」と官憲等から疑われていたことは否定できなかろう。その点では賢治も甚次郎も似たような状況下にあったと言える。
 しかしそれに対してどう対応したかというと、二人の間には結果的には大きな違いがあり、大内秀明氏が、
 昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていました。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐の通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
            〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』(仙台・羅須地人協会 代表大内秀明)33p〉
と論じているように、賢治は2年4ヶ月の間暮らしていた下根子桜からすごすごと撤退したと言えるだろう。
 一方の甚次郎の場合は『土に叫ぶ』に従えば、「自分はまだまだやらねばならない計畫もあるし、總てが未完成であるから、どうしてももつよもつと社會に、農村文化に奉仕せねばならんと新しく心に誓つた」と決意を新たにしたことになるし、甚次郎は爾後も「賢治精神」を実践し続け、そして昭和18年に夭逝したということは承知の通りである。

 では、共に周りから「赤化思想の持ち主」と思われていたことを否めない二人が、官憲等からの圧力を受けてその対処の仕方が違ってしまった大きな原因は何であったのだろうか。それは、私にはしかとはわからぬが、
 同志であるならば「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」られた甚次郎はそのとおりにやったが、そう「訓へ」た側の賢治はどちらもしなかった。
という事実、延いては、「羅須地人協会」と「最上共働村塾」というの名前の違いにもともと内包されていたのではなかろうか、と最近感じ始めている。 

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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