みちのくの山野草

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鳥海宗晴の「追悼の詩」

2020-10-15 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『寂光「素直な土」』(間宮 一編、松田睦子発行、昭和51年8月4日)吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は、鳥海宗晴の「追悼の詩」からである。そこには、こんなことが書かれていた。
 昭和十八年八月四日、あなたと幽明境を異にしてから今年で三十三年になりました。あなたは日本が戦いに勝つことを信じあなた自身の心と身も焔と燃やして農村を守り、一家を犠牲にしてすべてを戦力として出しつくす生活でした。
 昭和十七年に出されたあまたの血と涙の生活記録である。
   〝野に立て〟
の著書の終わりに
〝懐かしい世の人々と共により美しいより新たなる決戦の体制に強く歩み入る我等の力は、すべての建設をなさずには居られないのである。〟
と結ばれて居ります。…投稿者略…
            かつての同志 
とである。
 ここで私は再び、ちょっと狼狽えてしまった。それは前回の〝須田仲次郎「追悼の辞」〟において、須田の言に従えばせ、松田甚次郎は満蒙への移住等で戦争協力をしたということを否定できないと思ったのと同様に、今回の鳥海のこの言に従えば、やはり甚次郎は戦争に協力したということを否定できないからである。ただし今回の鳥海の場合は、前回の須田の場合と違って、教え子を戦場に送りだしたいというわけではなく、甚次郎自身の内部での心構としてのもののはずだが。
 しかしながら、戦後約30年が経ってからさえも「かつての同志」と自称する鳥海宗晴がこう言っているということからは、当時は、甚次郎も鳥海も「日本が戦いに勝つことを信じ」ていたことや、「人々と共により美しいより新たなる決戦の体制に強く歩み入る我等の力」を信じていたであろうことは間違いなさそうだ。
 さりとて、当時は国民の殆どがそう信じていたこともまた間違いなかろう。となれば、このことを否定できない限り、やはり甚次郎独りだけを「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した。これは賢治には全く見られぬものであった」と揶揄することは如何なものか、とも思ってしまう。そう揶揄した本人と甚次郎の間にそれ程の違いはなかろうに。またそもそも、賢治は疾うに亡くなっていたのだから、二人を同じ土俵に乗せることはアンフェアであろう。言い換えれば、「これは賢治には全く見られぬものであった」ということを理由でこう甚次郎独りをくさすのであれば、それは牽強付会な論になってしまうのではなかろか。 

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