松田甚次郎の著書『土に叫ぶ』の本文は次のように始まっている。
一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
なお、ここに出てくる「明石村」とは岩手県柴波郡の赤石村のことであり、次のようなところに位置していた村である。
【1 岩手県柴波郡赤石村】
<『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より>
赤い字の”紫波郡”という文字があるが、この”波”と”郡”の中間の下方に二重枠の”日詰”という文字が見つかると思う。その真下にあるのが当該の”赤石”である。
一方、『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)の年譜によれば
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9.for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
1.戯、其他農村芸術ニツキ、
2.生活 其他 処世上
[?]pple
2.30.for morioka 運送店
(中略)
今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ尽力スル 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
おお郷里の方々!地学会、農芸会、此の中心ニ我々のなすヲ見よ、現代の農村生活ヲ活カスノダ」(以下略)
とある。
このことなどから、松田は昭和2年3月8日(火)の午後、友人(同著の年譜によれば、mr 須田とは松田と同級の農業別科2年の須田仲次郎だという)と二人で下根子桜の賢治宅を訪れたということが分かる。
【2 下根子桜の賢治宅(羅須地人協会の建物)】
<宮澤賢治詩碑(羅須地人協会跡地)案内板より>
ところで、『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)の”はじめに”のところに
そのったった一度の出会いが松田甚次郎の生涯をきめた。
とか、同じく1章の”「小作人たれ、農村劇をやれ」”には
松田甚次郎が初めて宮澤賢治を訪ねたのは一九歳の春のことであった。
宮澤賢治の年譜(『文芸読本宮澤賢治』)によれば、昭和二年二月一日「岩手日報」の夕刊に、宮澤賢治の羅須地人協会の活動紹介の記事が出、それを見た高農後輩松田甚次郎の訪問を受けた、と記されている。
とか書かれている。
しかし、前掲した『土に叫ぶ』の”出だし”の文章の末尾に『御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した』とあるのだから、松田はこの日に初めて賢治に会ったわけではなくてそれ以前からある程度の面識・交流があったであろうことが推理できる。でなければ、『御礼と御暇乞ひに』などという書き方はしないはずだからである。
もちろん、松田が賢治宅を訪ねたこのとき、松田本人は19才、賢治は31才であるから12歳も歳がかけ離れている。したがって、二人が同時期に盛岡高等農林の学舎で学んでいたことはないことになる。
ところが、賢治が花巻農学校を辞したのは大正15年(1926年)3月、下根子桜で独居自炊生活を始めたのは同4月1日であり、同日の岩手日報朝刊に
新しい農村の/建設に努力する/花巻農学校を/辞した宮澤先生
という見出しで記事が出たという(『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)より)。
一方、松田が盛岡高等農林に入学したのは大正15年4月だから、松田が盛岡で学生生活をし始めた時期は賢治が「本統の百姓」になるために下根子桜で活動し始めた時期と重なる。意識の高い松田のことだからかなり早い時点から岩手日報の記事などを通じて賢治の活動内容を知っていたと思われるし、もしかすると松田は羅須地人協会の講義などにも出席していた可能性だって考えられる。でなければ、前述のような『御礼と御暇乞ひ』という表現はなされないと思うからである。
このことは、前掲した『土に叫ぶ』の出だしに引き続いて次のように書かれていることからも推理できる。
先生は相変わらず書斎で思索にふけつてをられた。宮澤先生は明治二十九年の生まれで、同県花巻町の豪家の長男であった。盛岡高農の逸材で、卒業後花巻の農学校に教鞭をとる傍ら、生徒に農民詩の指導者をやつて居られた。故あつてそこを辞されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協会』といふのを開設し、自ら農耕に従った。毎日自炊、自耕し、或は音楽、詩作、童話の研究に余念なく、精魂の限りを尽くされた。そして日曜や公休日には、農学校の卒業生や近隣の青年を集めて、農村問題や肥料の話などをしながら、時にはレコードやセロを聽かせて、時には自作の詩を発表した。或る時は又農民劇の脚本を書いて農民劇をやらしたりした。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
つまり、『先生は相変わらず書斎で思索にふけつてをられた』とあることから、松田は賢治が書斎で思索にふけっている様子を何度か見ているということになり、何回か下根子桜の賢治宅を訪れていたことになると私は考えている。
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一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
なお、ここに出てくる「明石村」とは岩手県柴波郡の赤石村のことであり、次のようなところに位置していた村である。
【1 岩手県柴波郡赤石村】
<『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より>
赤い字の”紫波郡”という文字があるが、この”波”と”郡”の中間の下方に二重枠の”日詰”という文字が見つかると思う。その真下にあるのが当該の”赤石”である。
一方、『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)の年譜によれば
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9.for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
1.戯、其他農村芸術ニツキ、
2.生活 其他 処世上
[?]pple
2.30.for morioka 運送店
(中略)
今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ尽力スル 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
おお郷里の方々!地学会、農芸会、此の中心ニ我々のなすヲ見よ、現代の農村生活ヲ活カスノダ」(以下略)
とある。
このことなどから、松田は昭和2年3月8日(火)の午後、友人(同著の年譜によれば、mr 須田とは松田と同級の農業別科2年の須田仲次郎だという)と二人で下根子桜の賢治宅を訪れたということが分かる。
【2 下根子桜の賢治宅(羅須地人協会の建物)】
<宮澤賢治詩碑(羅須地人協会跡地)案内板より>
ところで、『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)の”はじめに”のところに
そのったった一度の出会いが松田甚次郎の生涯をきめた。
とか、同じく1章の”「小作人たれ、農村劇をやれ」”には
松田甚次郎が初めて宮澤賢治を訪ねたのは一九歳の春のことであった。
宮澤賢治の年譜(『文芸読本宮澤賢治』)によれば、昭和二年二月一日「岩手日報」の夕刊に、宮澤賢治の羅須地人協会の活動紹介の記事が出、それを見た高農後輩松田甚次郎の訪問を受けた、と記されている。
とか書かれている。
しかし、前掲した『土に叫ぶ』の”出だし”の文章の末尾に『御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した』とあるのだから、松田はこの日に初めて賢治に会ったわけではなくてそれ以前からある程度の面識・交流があったであろうことが推理できる。でなければ、『御礼と御暇乞ひに』などという書き方はしないはずだからである。
もちろん、松田が賢治宅を訪ねたこのとき、松田本人は19才、賢治は31才であるから12歳も歳がかけ離れている。したがって、二人が同時期に盛岡高等農林の学舎で学んでいたことはないことになる。
ところが、賢治が花巻農学校を辞したのは大正15年(1926年)3月、下根子桜で独居自炊生活を始めたのは同4月1日であり、同日の岩手日報朝刊に
新しい農村の/建設に努力する/花巻農学校を/辞した宮澤先生
という見出しで記事が出たという(『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)より)。
一方、松田が盛岡高等農林に入学したのは大正15年4月だから、松田が盛岡で学生生活をし始めた時期は賢治が「本統の百姓」になるために下根子桜で活動し始めた時期と重なる。意識の高い松田のことだからかなり早い時点から岩手日報の記事などを通じて賢治の活動内容を知っていたと思われるし、もしかすると松田は羅須地人協会の講義などにも出席していた可能性だって考えられる。でなければ、前述のような『御礼と御暇乞ひ』という表現はなされないと思うからである。
このことは、前掲した『土に叫ぶ』の出だしに引き続いて次のように書かれていることからも推理できる。
先生は相変わらず書斎で思索にふけつてをられた。宮澤先生は明治二十九年の生まれで、同県花巻町の豪家の長男であった。盛岡高農の逸材で、卒業後花巻の農学校に教鞭をとる傍ら、生徒に農民詩の指導者をやつて居られた。故あつてそこを辞されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協会』といふのを開設し、自ら農耕に従った。毎日自炊、自耕し、或は音楽、詩作、童話の研究に余念なく、精魂の限りを尽くされた。そして日曜や公休日には、農学校の卒業生や近隣の青年を集めて、農村問題や肥料の話などをしながら、時にはレコードやセロを聽かせて、時には自作の詩を発表した。或る時は又農民劇の脚本を書いて農民劇をやらしたりした。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
つまり、『先生は相変わらず書斎で思索にふけつてをられた』とあることから、松田は賢治が書斎で思索にふけっている様子を何度か見ているということになり、何回か下根子桜の賢治宅を訪れていたことになると私は考えている。
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