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はじめに

2021-03-15 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

はじめに
 崩れ出した私の中のイメージ
 約十数年程前から私の中で崩れ始め、その後も少しずつ崩壊し続けているものがある。それは私の中の「羅須地人協会」のイメージである。
 例えば、私が以前持っていたその決定的なイメージの一つとして「独居自炊」があったが、賢治が羅須地人協会の建物に住まっていた期間のうちの、少なくとも約半年間は千葉恭という若者と一緒に賢治は生活していたということをその後知って、どうやらその時代とは「独居自炊」という言葉では括れないのではなかろうかと思うようになった。私の羅須地人協会のイメージの一端が崩れ始めたときであった。
 それまでの私は、「羅須地人協会時代」とは賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まいながら菩薩となって貧しい農民を救おうとした5年程の期間のことをいうと思っていた。実際、『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)を見てみると、
    「羅須地人協会時代」=大正15年3月31日~昭和5年3月………① 
となっている。たしかに5年間である。
 ところが、少しずつ賢治のことを調べ始めてみたならば、賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まっていた期間は、これを「下根子桜時代」と呼ぶことにすると、
    「下根子桜時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日 ……② 
の「2年4ヶ月余」としてよいということを知った。
 さらに、前述した千葉恭のことを調べ回っているうちに私は、賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間を〟実質的な「羅須地人協会時代」〝と定義すると
   実質的な「羅須地人協会時代」=大正15年11月29日~昭和2年4月10日 ……③ 
の「4ヶ月余」となるのではなかろうかと思うようになった。
 よって次の不等式
   ①の5年間>②の2年4ヶ月余>③の4ヶ月余
が成立する。
 一方で、賢治が農民のために「羅須地人協会」で行った活動については一般に
   ①の中身=③の中身
であると捉えられている傾向があるのではなかろうか。言い方を換えれば、
   賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=5年間  ……○☆ 
である、と思われているではなかろうか。ちなみにかつての私がそうであった。もちろん今の私はもうそうとは思っておらず、
   賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=4ヶ月余     
であると思っているし、もし「羅須地人協会時代」というものがあるとするならば、広義に解釈しても、
   「羅須地人協会時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日 
の2年4ヶ月余ではなかろうかと最近は考えるようになってきた。
 それにしても、なぜ私は今まで○☆であるとばかり思い込んでいたのだろうか……どうやら私は「羅須地人協会」という言葉に幻惑され過ぎて、実態がわからなくてなおかつ魅惑的な「羅須地人」という言葉に翻弄されていたようだ。

 羅須地人協会の真実を知りたい
 振り返ってみれば、それまでのイメージが崩れ始めた時期というのはちょうど私が賢治のことを自分の足で調べ始めた時期だ。私はそれまでは長年花巻に住んでいながら、賢治についてはほんの僅かの知識と巷間流布しているようなイメージしか持ち合わせていなかった。
 そこで、退職した私は折角花巻に住んでいるのだから賢治のことを自分の足で調べてみようと思い立った。というのは、かつて私が学生だった頃に、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを、賢治の甥でもある、私の恩師が語ってくれたことがその後ずっと気になっていたからである。
 そして、賢治のことを僅かではあるが自分の目で見ることができた。その結果新たにわかったことも多少はあるが、逆にわからないことの方がどんどん増えてしまったというのが当時の私の実態であった。例えば、
(1) なぜ堀尾青史はこの5年間を「羅須地人協会時代」と呼んだのだろうか。そして、なぜそれが巷間流布しているのだろうか。
(2) 大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に、なぜ賢治は義捐活動を行わなかったのだろうか。
(3) なぜ賢治と一緒に生活した千葉恭のことは調べられもせずに、賢治の年譜上は無視されてきたのだろうか。
(4) なぜ昭和2年11月頃からの約3ヶ月の滞京は検証もされずに、無視されているのだろうか。
(5) なぜかくも「羅須地人協会時代」や「羅須地人協会」に関しては不明なことが多すぎるのか。なおかつ、どうしてこれの 事柄があまり調べられないままにここまで至っているのだろうか。
等がある。
 そしてこれらのことに関して私は、あれだけ膨大な『校本宮澤賢治全集』やさらには『新校本宮澤賢治全集』が出版されているのだから既に調べ尽くされているものとばかり思っていたが、少なくとも「羅須地人協会」や「羅須地人協会時代」に限って言えば、どうやらそうとばかりも言えなさそうだということを知ることとなった。
 また一方で、地元に居るせいか私に聞こえてくることの中には、どうも「現通説」とは相容れないものも少なくないということも知るようになった。そうなると、私はますます「羅須地人協会」の真実を知りたいという思いに駆られるようになていった。しかし、では一体どうすればいいのだろうか……。

 自分で調べる
 たどり着いた結論は、自分で調べる、それもできるかぎり自分の足で調べるしかないというものだった。実際そうしてみると、(2)については当時の『岩手日報』の連日の新聞報道を見てその惨状がまざまざと判ったし、全国からは小学生さえもが義捐金を寄こしたり、労農党支部等は街頭で義捐金の寄付を呼びかけたり、学生は木炭販売の益金を寄付したり等、それぞれがそれぞれの仕方で大旱魃によって引き起こされる大飢饉を防ごうとして様々の救援活動をしていたことも知った。
 ところが一方で、その頃羅須地人協会の建物に集っていた若者達や羅須地人協会のメンバーが義捐活動をしていたかというとそのような証言や資料はなさそうだ。また、賢治自身はそのさなか約一ヶ月間の滞京をしていたことを知った。どうやら、大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に賢治は全く義捐活動を行っていなかったということになりそうだ。だから、もしかするとこのとき賢治は「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」ていたとは言い難いかもしれないということを私は知った。
 次の(3)の千葉恭に関しては、なぜ今まで彼のことが無視されてきたのかという点については未だわからない点が残っているが、その点を除けば前に拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において今まで知られていなかったことなどを可能な限り明らかにできたので、多少は羅須地人協会の真実を明らかにできたと確信している。
 そして次の(4)についてだが、この拙著『賢治昭和二年の上京』はまさしくこの約3ヶ月の滞京に関わる上京の真相に迫ってみようとするものである。これがこの拙著を著しかった最大の目的であり、本書の大半はこのことので占められている。
 さてその際の基本的な姿勢であるが、今回も『賢治と一緒に暮らした男』の場合と同様、ある仮説を立ててその検証を行うという、「仮説検証型研究」によるものである。

 では、いよいよ「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅に出発したい。

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