さて昭和3年夏の花巻の気象はどうであったのであろうか。
『岩手日報』の報道より
まずは『昭和3年8月25日岩手日報』の紙上に次のような見出しの記事があった。
この年、昭和3年の夏の盛岡地方は40日以上も日照り続きだったということになる。
宮野目の場合
一方これは盛岡だけのことではなくて花巻も同様であったらしい。
まずは花巻宮野目の場合である。『宮野目小史』には、昭和3年の宮野目地区の天候の記録があり、
昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴……①
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
ということであった。宮野目も同様約40日間も雨が降らなかったということとなる。ではこれは宮野目だけのことかというと、それはなかろう。花巻全体でもほぼ宮野目と同じであったであろう。宮野目は花巻の一部だからである。
『岩手県気象年報』によれば
実際、『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年)』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)を元にして、大正15年、昭和2年、3年の気象データをグラフにしてみると以前下根子桜時代の花巻の気象(#2)で触れたように、
《図1》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c8/79868058d7fa05f7950ac4424003e88c.png)
たしかに上図を見ると昭和3年は他の年とはその傾向が明らかに違うから〝異常な気候〟とは言えそうだ。
昭和3年については、6月は多雨、逆に8月~9月は少雨
であり、他の年と比較して折れ線がほぼ上下逆だからである。
しかし、この年の花巻では田植え時の6月に雨量が多かったのだから稲作にとっては異常な気候どころかかえって好ましいことのはず。また、たしかに7月は他の年と比較して雨量はやや少ないが、これだけの雨が降っておればまず旱害の心配はなかろう。一方、8月~9月の雨量はかなり少ない。とはいえこの時期水稲にとって用水の必要性はあまりなく、また稲熱病を引き起こしやすい多雨多湿であるよりはこのような気候のほうが好ましいのではなかろうか。
一方気温については下図のように
《図2》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/c8/95b77dc7c983e3ea3da5a8209c6af5a3.png)
《図3》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/98/719e9f85ab025079a20074c747d0c710.png)
私の疑問
したがって、客観的な気象データに基づく限りは、
昭和3年の夏に風は吹いたかもしれないが、それが〝風雨〟であったことはまずなかろう。雨はまず降らなかったと考えてよくて、気温も例年通りであったと考えられる。
一つ心配なのが、天沢氏も指摘するとおり稲熱病である。そしてこのことは次のことからも心配される。
とあるからである。
とはいえ、
イモチ病は一般には高温多湿がそれを引き起こしやすいといわれているようだから、この夏は高温であったにしても雨は降っていないから〝多湿〟となることはあまり考えられない。
から、それほどの被害はなかったと考えるのが妥当だと私は思う。
しいていえば、このような昭和3年の気象であれば陸稲だけは被害が大きかったことは考えられる。あまりにも長期間雨が降らなかったからである。
実際『昭和3年10月3日付岩手日報』によれば
県の第1回予想収穫高は
稗貫郡 作付け反別 収穫予想高 前年比較
水稲 6,326町歩 113,267石 2,130石
陸稲 195町歩 1,117石 △1,169石
となっていて、陸稲の収穫予想高は前年の半分以下であることが分かる。とはいえ
195÷(6,326+195)=0.03=3%
であり、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないし、水稲についてはかえって前年よりも増収が予想されている。陸稲の減収を補って余りあることが判る。もちろん、この昭和3年の稗貫郡や紫波郡が、大正15年の場合と同じような干魃だったという事実もない。
したがって、少なくとも気象データに従う限りにおいては、
よって、
はたして賢治は昭和3年8月10日に実家に戻ったのは病気のためだったのだろうか。その帰る時の賢治の様を見ていた伊藤忠一が、賢治が特に重症だったとは受け止めていなかったことも併せて考えれば、その実家に帰った理由は他にあったということも否定しきれないのではなかろうか。
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『岩手日報』の報道より
まずは『昭和3年8月25日岩手日報』の紙上に次のような見出しの記事があった。
四十日以上打ち續く日照りに
陸稲始め野菜類全滅!!
大根などは全然發芽しない
悲惨な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帯の地方の陸稲は生育殆と停止の状態にあり両三日中に雨を見なければ陸稲作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
陸稲始め野菜類全滅!!
大根などは全然發芽しない
悲惨な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帯の地方の陸稲は生育殆と停止の状態にあり両三日中に雨を見なければ陸稲作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
この年、昭和3年の夏の盛岡地方は40日以上も日照り続きだったということになる。
宮野目の場合
一方これは盛岡だけのことではなくて花巻も同様であったらしい。
まずは花巻宮野目の場合である。『宮野目小史』には、昭和3年の宮野目地区の天候の記録があり、
昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴……①
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
ということであった。宮野目も同様約40日間も雨が降らなかったということとなる。ではこれは宮野目だけのことかというと、それはなかろう。花巻全体でもほぼ宮野目と同じであったであろう。宮野目は花巻の一部だからである。
『岩手県気象年報』によれば
実際、『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年)』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)を元にして、大正15年、昭和2年、3年の気象データをグラフにしてみると以前下根子桜時代の花巻の気象(#2)で触れたように、
《図1》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c8/79868058d7fa05f7950ac4424003e88c.png)
<素データは『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となる。たしかに上図を見ると昭和3年は他の年とはその傾向が明らかに違うから〝異常な気候〟とは言えそうだ。
昭和3年については、6月は多雨、逆に8月~9月は少雨
であり、他の年と比較して折れ線がほぼ上下逆だからである。
しかし、この年の花巻では田植え時の6月に雨量が多かったのだから稲作にとっては異常な気候どころかかえって好ましいことのはず。また、たしかに7月は他の年と比較して雨量はやや少ないが、これだけの雨が降っておればまず旱害の心配はなかろう。一方、8月~9月の雨量はかなり少ない。とはいえこの時期水稲にとって用水の必要性はあまりなく、また稲熱病を引き起こしやすい多雨多湿であるよりはこのような気候のほうが好ましいのではなかろうか。
一方気温については下図のように
《図2》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/c8/95b77dc7c983e3ea3da5a8209c6af5a3.png)
《図3》
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/98/719e9f85ab025079a20074c747d0c710.png)
<素データは『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となっているから、気温の方は前年、前々年と似たようなものである。私の疑問
したがって、客観的な気象データに基づく限りは、
昭和3年の夏に風は吹いたかもしれないが、それが〝風雨〟であったことはまずなかろう。雨はまず降らなかったと考えてよくて、気温も例年通りであったと考えられる。
一つ心配なのが、天沢氏も指摘するとおり稲熱病である。そしてこのことは次のことからも心配される。
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病ではないかを調べるようにへ依頼。検鏡の結果イモチ病とわかる。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)378pより>とあるからである。
とはいえ、
イモチ病は一般には高温多湿がそれを引き起こしやすいといわれているようだから、この夏は高温であったにしても雨は降っていないから〝多湿〟となることはあまり考えられない。
から、それほどの被害はなかったと考えるのが妥当だと私は思う。
しいていえば、このような昭和3年の気象であれば陸稲だけは被害が大きかったことは考えられる。あまりにも長期間雨が降らなかったからである。
実際『昭和3年10月3日付岩手日報』によれば
県の第1回予想収穫高は
稗貫郡 作付け反別 収穫予想高 前年比較
水稲 6,326町歩 113,267石 2,130石
陸稲 195町歩 1,117石 △1,169石
となっていて、陸稲の収穫予想高は前年の半分以下であることが分かる。とはいえ
195÷(6,326+195)=0.03=3%
であり、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないし、水稲についてはかえって前年よりも増収が予想されている。陸稲の減収を補って余りあることが判る。もちろん、この昭和3年の稗貫郡や紫波郡が、大正15年の場合と同じような干魃だったという事実もない。
したがって、少なくとも気象データに従う限りにおいては、
昭和3年の夏に賢治が〝風雨の中を東奔西走〟するということはあまり考えられない。
また、イモチ病が発生したにしてもそれほど被害が甚大だったとは考えられないし、旱魃の被害が甚大だったという歴史的事実もないようだ。よって、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
ということに対して私はかなり違和感がある。はたして賢治は昭和3年8月10日に実家に戻ったのは病気のためだったのだろうか。その帰る時の賢治の様を見ていた伊藤忠一が、賢治が特に重症だったとは受け止めていなかったことも併せて考えれば、その実家に帰った理由は他にあったということも否定しきれないのではなかろうか。
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