宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

483 昭和3年6月~8月の花巻の天気

2013年06月05日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛される賢治に》
大正15年~昭和3年夏の花巻の天気
 先の〝氣候不順に依る稲作の不良〟で、大正15年~3年の花巻の稲作期間の気象(月別の雨量及び気温)を掲げたところだが、この度当時の花巻の毎日の天気がわかったので掲げてみたい。
 実は、花巻のかつての湯口村の村長等を務めた阿部晁という人物がいて、彼はいわゆる『阿部晁の家政日記』を付けているのだが、その日記には日々の天気も記してある。そこでその日記から大正15年~昭和3年の夏の天気について拾ってみると下表のようになる。



              <『阿部晁日記 大正15年、昭和2年、同3年』より>
そして、阿部晁の家は花巻の石神(あの鼬幣神社のある地域)であるから、これらの天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう。
昭和3年6月~8月の花巻の日々の天気
 これで、賢治の下根子桜時代当時の花巻の夏、6月~8月の天気が判った。そして、いま一番興味深いのは昭和3年6月~8月の日々の天気である。上掲表の〝薄紫色〟の部分は昭和3年に限って言えば、賢治が下根子桜に居なかった期間(6月の上京・大島行、8月の自宅病臥)なので、この部分を除いた部分、即ち昭和3年の夏に下根子桜に居たと思われる期間を眺めて見る。すると…やはり変である。
 以前〝「賢治年譜」の昭和3年8月〟でも触れたようにかつての殆どの「賢治年譜」の賢治昭和3年8月の記載は
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
となっているが、どうやらこの記載は説得力に欠けていることが、これらの日々の天気からも言えそうだ。
 上掲表に基づく限り、昭和3年の晴れた日に一日(7/26)だけ風は吹いたようだが、〝風雨〟であった日はこの年の夏にはなかったと判断できるし、そもそも雨そのものが、7月の初めだけは降ったものの、その後は殆ど降らなかったと判断してよさそうだからだ。
 実際、阿部晁自身は次のようなことも同日記に記している。
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
 よって、大正15年の夏のような天候ならばまだしも、昭和3年のこのような天候であったならば、実家に戻る前の約一ヶ月間は「風雨の中を徹宵東奔西走」せねばならなぬような天候であった日はほぼなかったということが導き出される。
 したがって、賢治が昭和3年8月10日に実家に戻ったのは
   風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪…
であったため、とはやはり言えなさそうだ。同時に、
 賢治が昭和3年8月10日に実家に戻った理由ははたして病気のためにだったのだろうか。
という疑問がまた一段と増してくる。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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