みちのくの山野草

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思考実験〈「下根子桜訪問」自体が虚構〉

2019-01-31 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

鈴木 ところで、森荘已池は、
 賢治がちゑさんと一方的な見合をし、また大島を訪ねた時代と、Tとよぶ女性が羅須地人協会の家に、しげしげと訪ねた時代とが同じだということは注意してよいことであろう。一方を極力拒否しながら一方を結婚の対象に考えていることによつて、私たちは、一方が、このましくない女性であり、一方はこのましい女性であることを知るのに困難はしないはずである。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)174pより>
とも述べている。もちろんこのTとは露のことであり、彼は露のことを「このましくない女性」としている。
荒木 だから、森は始めから露のことを勝手に決めつけた上で「昭和六年七月七日の日記」を書いていたことは明らかだ。
鈴木 しかも知ってのとおり、賢治と私とを結びつけることは絶対止めて下さいとちゑは森に懇願している<*1>というのに、森は無理矢理結びつけようとした。実際それは、『宮澤賢治と三人の女性』の端書きとも言える「宮沢賢治をしるために」において、
 宮沢賢治と、もつともちかいかんけいにあつた妹とし子、宮沢賢治と結婚したかつた女性、宮沢賢治が結婚したかつた女性との三人について、傳記的にまとめて、考えてみたものである。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)3p~より>
と森が説明していることからも窺える。
吉田 だから森は始めから、
   露 =「宮沢賢治と結婚したかつた女性
   ちゑ=「宮沢賢治が結婚したかつた女性
と決めつけてスタートし、同書の中で
   露 =「このましくない女性」=<悪女>
   ちゑ=「このましい女性」=<聖女>
という構図を定着させようとしたのかもしれないな。
荒木 そっか、森は始めっから悪意と思惑とを持っていて、この構図を定着させようという下心があったということだべ。
吉田 おっと、荒木の際どい表現も今出たところだし、しかしその可能性も探らねばならないから、ここからは発想と推論が柔軟になる思考実験に切り替える必要がありそうだな。
荒木 おお、それもそうだな。
 待て、待て…… あるいは、当時『イーハトーヴォ創刊號』に露に関するゴシップ仕立ての「賢治先生」が載っているように、一般読者に興味関心を持たせるためにゴシップも書こうと思い立ったのかもしれんぞ。
吉田 そんなことなども狙って同書に露のことも大いに書こうと思っていたことはたしかだろう。実際それは露を含めた三人の女性の三本仕立ての本になっているし、露関連についてはとても検証したものとも、裏付けを取ったものとも思えんことをあたかもそれを見ていたかの如く書き連ねた文章があちこちに散在しているからな。おそらく、森は書いているうちに作家の「性」に抗えなくなってしまって、ついついあれこれフィクションを交えてしまったということだろう。
荒木 例えば、「下根子桜訪問」をでっち上げ、さらにはその際に露とすれ違ったと虚構した。
鈴木 とはいっても、それをいつにするかを迷った。全くのでたらめの時期にはできない……。
荒木 そうか、閃いたぞ。実は、森は病が癒えて昭和3年6月には『岩手日報社』に入社もできたし、昭和3年の秋には花巻ぐらいまでならば出がけることができるまでに快復したので、「一九二八年の秋の日」に岩手日報入社の挨拶旁々花巻の賢治の実家に訪ねて来たことが実際にあったのだ。
吉田 そうだよな、冷静に考えてみれば昭和3年当時病の癒えた森が賢治の許を訪れなかったということはあり得ん。東京に住んでいた菊池武雄ですら豊沢町に戻っていた賢治を訪ねて行って、しかも賢治とは結局面会できなかったということがかつてあったのだから、その噂が森の耳に届かないはずはなかろう。
鈴木 ただし、賢治は当時凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していたから、その訪問を森は公的には一切書けなかった。
荒木 一方先にわかったように、森の場合公的にはその時期を「昭和2年の秋」とすることもはたまた「大正15年の秋」とすることも無理だった。そこで、ついついその期日を森がこっそりと豊沢町に賢治を訪ねていた「昭和3年の秋の日」と設定したというわけさ。
鈴木 そうだよな、人間の心理として全くでたらめな期日をでっちあげることは難しいからな。
吉田 あとは、「下根子桜訪問」及びその際の「露との遭遇」は全て虚構で、「このましくない女性」という位置づけで、佐藤通雅氏の表現を借りれば「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作」をしてしまった
鈴木 とはいえ、森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった。だから西暦表現を用いてここだけは「一九二八年の秋の日」とした、という次第か。これが、以前吉田が、『何か心に引っ掛かることがあってここだけは「西暦」にしたというあたりだろう』と示唆した意味だったのだな。
荒木 なあるほど。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけは西暦で「一九二八年」にしたのはそういう心理が働いていたのか。
鈴木 だからかたくなに森は件の下根子桜訪問時期を、『宮澤賢治追悼』(次郎社、昭9)でも『宮澤賢治研究』(十字屋書店、昭14)でも『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房、昭24)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、昭49)でも皆「一九二八年の秋」としていたんだ。
荒木 うん?それじゃどうして『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部、昭63)では大正15年の秋」としたんだ?
鈴木 いや先に引用したように、その日のことは「大正15年の秋の日」とはせずに、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった」と森は表現している。
吉田 それは苦肉の策さ。『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃になると「旧校本年譜」も既に定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜にいないことは遍く知れ渡ってしまった。そこでもし、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」としたならばそれは破綻を来していることが容易に指摘されてしまう時代になってしまったためだよ。
荒木 さりとて、森自身はそれを直ぐさま「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き替えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったからそれは無理。そこで残された「大正15年の秋の日」とするしかなかったというわけか。
吉田 しかも、もうこれ以上あれこれ穿鑿されることを嫌って、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、ぼやかしたのじゃなかろか。
荒木 なるほど。さっき鈴木が言ったところの、『森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった』という心理がここでも同じように働いていたのか。そうか、このように考えればほとんどのことが辻褄が合うな。
吉田 まあ、あくまでも思考実験上でだけのことだけどな。とはいえ、かなり説得力はありそうだから一つの可能性としては棄てがたい。
 しかも今までの僕らの検証によれば、「森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった可能性が極めて高い」ことがわかっているから、もはやこうなれば
 森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。……③
と断定してもよかろう。
荒木 そうか、件の「下根子桜訪問」は全てが虚構だった、これが今回の思考実験の結果ということか。
鈴木 実はあからさまには言ってこなかったが、私自身は今回も基本的には「仮説・検証型」の考察を行ってきたつもりだった。そして何を隠そう、その私の仮説は今吉田がいみじくも言った〈③〉だったのだ。
吉田 だろ、それは僕も薄々感じてた。
鈴木 そしてここまでの検証の結果、この仮説〈③〉の反例となるものは今のところ何一つない。一方で、
現通説:昭和2年の秋の日森は下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違った。
の反例や反例らしきものが幾つか見つかったということこそあれ、現通説を裏付ける確たる資料も証言も森自身のもの以外は今のところないから現通説は危うい。となれば、仮説〈③〉の反例が見つかるまでは、仮説〈③〉の方が現時点では最も妥当な説だと言える。
荒木 ところで何だっけ、現通説の反例って?
鈴木 一つは他でもない先に荒木も挙げた、例の
  (3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという本人の証言。
そして二つ目が、それこそ森自身の証言
  一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。
があるじゃないか。
荒木 そうか、現時点で反例が2つもあるということであれば、現通説は砂上の楼閣。それよりは現時点では反例のないこちらの仮説、
 森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に捏造であった。
が成り立つとするのが遙かに妥当だということな。
鈴木 おいおいちょっと待て、私は「捏造」とは言っていないぞ、「虚構」だぞ。
吉田 確かに捏造と言うのはちょっときついが、件の「下根子桜訪問」は「捏造」であった、と言った方がふさわしいのかもしれんな。なにしろ高瀬露の人格と尊厳をとことん傷つけてしまったのだからな。
 でももしかすると、それこそ森は日記をつけていたようだから、そのうちに森の『昭和三年の日記』が見つかって、仮説〈③〉の反例がそこから見つかるかもしれんが、その時は荒木が僕らを代表して謝ればいい。
荒木 おいおい、梯子を外すなよ。

<*1> 伊藤ちゑは森荘已池に宛てた書簡の中で、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(投稿者略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口では申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)158p>
とか、 
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。
            <同164p>
と懇願したり、強く抗議したりしている。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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