みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「山の春」(前編)

2024-02-21 08:00:00 | 独居自炊の光太郎
 高村光太郎が愛してやまない山口山が、どの山かも相変わらず特定出来ずにいる私だが、光太郎は「山の春」という作品を書いていて、その「山の春」のは以下のようなものであった。

 山の春

 ほんとうは、三月にはまだ山の春は來ない。三月春分の日というのに、山の小屋のまわりには雪がいつぱいある。雪がほんとに消えるのは五月の中ほどである。つまり、それまで山々にかぶさっていた、氷のように冷たい空氣が、五月頃になると、急に北の方へおし流されて、もう十分あたたかくなっている地面の中の熱と、日の光とが、にわかに働きだして、一日一刻も惜しいような山の春があらわれ、又たちまちそれが夏にかわつてゆくのである。東北の春のあわただしさは、リンゴ、梅、梨、桜のような、いわゆる春の花の代表が、前後する暇もなく、一時にぱっと開いて、まるで童話劇の舞臺にでもいるような氣を起させる。これは四月末のことであつて、三月にはまだその自然の花々は固い木の芽の中にねむつているのだが、雜誌の三月號といえば、もう誰でも春の話をするにきまつているし、また事實、上野公園あたりの彼岸櫻の蕾つぼみは每年きまつてほころびはじめる。日本の国は南北に長いので、季節がこんなにずれていて、おかしいようでもあり、又それがおもしろくもおもえる。北の方ではラッセル車が出るというのに、南の方では桃の花が村々にのどかに咲く。
 自然の季節に早いところとおそいところとはあつても、季節のおこないそのものは每年規律ただしくやつてきて、けつしてでたらめでない。ちゃんと地面の下に用意されていたものが、自分の順番を少しもまちがえずに働きはじめる。木の芽にしても、秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ、しずかに固く戸をとじて冬の間を待つている。まつたく枯れたように見える木の枝などが、じつさいはその内部でかつぱつに生活がたのしくおこなわれ、來年の花をさかせるよろこびにみちているのである。あの枯枝の梢を冬の日に見あげると、何というその枝々のうれしげであることだろう。
 さて、山の三月は雪でいつぱいだが、それでも、もう冬ではなくて春の一部にはちがいないので、雪は降つても又目立つて解ける。零下一〇度程度の寒さはすくなくなり、屋根からは急にツララがさかんにぶらさがる。ツララは極寒の頃にはあまり出來ず、春さきになつて大きなのが下る。ツララは寒さのしるしでなくて、あたたかくなりはじめたというしるしである。ツララの畫を見ると寒いように感じるが、山の人がツララを見ると、おう、もう春だつちゃ、と思うのである。
 ツララがさかんになる頃には、水田の上にかぶさつていた雪の原に割れ目ができてくる。大てい畔にそつて雪は解ける。雪の斷層ができて、山嶽でいう雪の廊下のようになる。それがくずれて、南側の日あたりに枯草の地面が顔を出す。地面が顔を出すが早いか、忽ちここの日光をしたつてフキの根からぽつかり靑いフキノトウが出る。このへんではこれをバッケとよんでいる。二つ、三つ、雪の間の地面にバッケを見つけた時のよろこびは毎年のことながら忘られない。ビタミンBCの固まりのようだ。さつそく集めて、こげいろの苞ほうをとりすて、靑い、やわらかい、まるい、山の精氣にみちた、いきいきとしたやつを、夕食の時、いろりの金網でかろくやき、みそをぬつたり、酢をつけたり、油をたらしたりして、少々にがいのをそのままたべる。冬の間のビタミン不足が一度に消しとぶような氣がする。たくさんとつた時は東京で母がしたように佃煮つくだににしてたくわえる。痰たんの藥だといつて父がよくたべていた。
 バッケには雌雄の別があつて、苞の中の蕾の形がちがう。雌の方は晩春のころ長く大きく伸びてタンポポのような毛のついた實になつて、無数に空中を飛んでゆく。
 バッケをたべているうちに、山ではハンノキに金モールの花がぶら下がる。この木を山ではヤツカ(八束か)とよんでいるが、大へん姿のいい木で、その細かい枝のさきに無数の金モールがぶら下って花粉をまく。小さな俵のような雌花があとでいわゆるヤシャの實になり、わたくしなどは木彫の染料に、それを煮出してつかう。もうその頃には地面の雪もうすくなり、小径も出來て早春らしい景色がはじまり、田のへりにはヤブカンゾウの芽がさかんに出る。これもちょつと油でいためて酢みそでくうとうまい。山の人はこれをカッコといつている。カッコが出るとカッコ鳥がくるし、カッコ鳥がくると田植だと人はいうがそうでもないようだ。そのころきれいなのは水きわの崖などに、ショウジョウバカマという山の草が紫つぽいあかい花をつけ、又カタクリのかわいい紫の花が、厚手の葉にかこまれて一草一花、谷地にさき、時として足のふみ場もないほどの群落をなして、みごとなこともある。カタクリの根は例のカタクリ粉の本物の原料になるのだが、なかなか掘るのにめんどうらしい上、製造に手數がかかるので、今ではこの寒ざらし粉はむしろ貴重品だ。
           〈『日本現代文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治集』(講談社)161p~〉

 一方私は、先の投稿〝『山荘の高村光太郎』懐かしい先生〟において、著者の佐藤勝治が、
 私は先生から実に得がたい多くのことを学びました。
 その中で一番の大きな教えは…投稿者略…ものの美しさを知ったことであります。一木一草に至る自然界の美しさがよくわかり、人の些細な厚意に感じ、どんな人にも良心と愛とを見るということであります。
 たとえば私が日常何気なく見過ごしていた山口山を、先生は感にたえたように、
「あの山は実にすばらしい山ですね。実に豊富だ」
と言われます。
            〈『山荘の高村光太郎』(佐藤勝治著、現代社)75p~〉
と追想していることを報告したが、この「山の春」の「」とはまさしくその「山口山」であることに間違いなかろう。「あの山は実にすばらしい山ですね。実に豊富だ」と言ったいうからだ。そして私はますます山口山に惹かれてしまう。

 まずこの「山の春」の中で、光太郎が、
 そのころきれいなのは水きわの崖などに、ショウジョウバカマという山の草が紫つぽいあかい花をつけ、又カタクリのかわいい紫の花が、厚手の葉にかこまれて一草一花、谷地にさき、時として足のふみ場もないほどの群落をなして、みごとなこともある。カタクリの根は例のカタクリ粉の本物の原料になるのだが、なかなか掘るのにめんどうらしい上、製造に手數がかかるので、今ではこの寒ざらし粉はむしろ貴重品だ。
と述べていることを知って、私は何よりも嬉しくなる。そうか、当時山口の野面にはカタクリの花が一面に咲いていたであろうこと、そしてまた、花巻はかつては片栗粉の名産地だったと聞いていたが、確かにそうであったであろうと思えたからだ。
 そらからこの「山の春」を読んで特に感じたこの一つは、「ツララ」に関するこの記述内容から、光太郎は客観的で冷静な人だということである。私はついつい、ツララとは冷たいもので、その話をする際は背筋がひんやりするのだが、光太郎は「ツララは極寒の頃にはあまり出來ず、春さきになつて大きなのが下る」とよく観察しているのでいたく感心した。そして、「ツララは寒さのしるしでなくて、あたたかくなりはじめたというしるしである」という冷静な判断に私は光太郎の凄さを知った。いや、というより、自分のいい加減さを恥じ入った。

 なお、「山の春」はまだ続くのだが、それは次回へ。

 続きへ
前へ 
「光太郎太田村山口で独居自炊」の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。"
 
***********************************************************************************************************
☆『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))

 アマゾン等でもネット販売されております
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 換骨奪胎だったので千葉恭は... | トップ | 〈注〉(私たちは今問われて... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

独居自炊の光太郎」カテゴリの最新記事