みちのくの山野草

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3528 当時の賢治の社会認識

2013-09-27 08:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
広がる旱害罹災地
 さらには、次のような報道があった。
【Fig.1 昭和2年1月23日付 岩手日報】

  知事夫人が 旱害罹災者慰問 内務部長夫人と 共に二十五日から
とあり、次の県下各地の旱害罹災地
 ▲紫波郡赤石、不動村
 ▲和賀郡中内、谷内村
 ▲江刺郡羽田村
 ▲西磐井郡日?村
を訪問するという。このことからは、旱害被害は紫波郡や稗貫郡のみにとどまらず、少なくとも和賀・江刺・西磐井の各郡にも広がっていたということが窺える。
15年産米の実収高確定
 そして、1月25日付『岩手日報』紙上に大正15年産米の実収高が次のように報道されていた。
【Fig.2 昭和2年1月25日付 岩手日報】

  本県の実収高 九十四万七千余石 二十万石の減収
本県における大正十五年の米作付反別は水稲五万二千八百三十五町三反陸稲九百六十九町六反計五万三千八百四町九反にしてその収穫高は水稲九十三万七千四百二十二石陸稲一万五千石計九十四万七千四百七十二石なり之を前年に比するに作付け反別において水稲二百六十一町五反減じ陸稲五十一町七反増し差引き二百九丁八反を減じたり尚収穫高において水稲十九万九千二百九十五石陸稲二千七石計二十万三百二石一割七分五厘減収となり更に最近五ヶ年平均収穫高に比すも十三万五千二十九石一割二分五厘の減収を見たり蓋し本年の稲作は苗代期に於て五月中旬迄に気温低く苗の発育不良にして挿わう(=秧)期に入り降雨全くなく
 各地旱魃 
各地かん魃の為一般に挿わうを失し加之挿わう後の気温恢復に至らず殊に七月中旬より異常の降雨に伴ひ気温著しく低下し穂の発育を阻害ししたがつて出穂亦著しく遅延した。
八月中旬の頃より天候恢復して気温上昇し且つ日照りに富み二百十日前後に於て多少の降雨ありたるも被害なく成熟比較的順調に進みたるも出穂遅延による障害を脱するに至らず且つかん魃により作付不能又は無収穫等其の他被害甚大なりし為前記の如き減収を見たり今最新五ヶ年収穫高及び各郡収穫高を示せば左の如し
 年 次    作付反別    収穫高
          町 反      石
大正十年   52,307,5   1,094,371
大正十一年  52,864,9   1,062,485
大正十二年  53,522,0   1,042,008
大正十三年  54,319,3   1,065,866
大正十四年  54,014,7   1,147,774
以上五年平均         1,082,201
大正十五年  53,804,9    947,472
この記事によれば、県全体では前年比1割7分5厘の減収だからそれほどたいしたことはないように思えてくるのだが、一般に〝作況指数90以下の場合に作柄は「著しい不良」〟と言われているようだからこの年はかなりの減収であり、それもそれは、旱魃被害が甚大だった紫波郡やその周辺に集中していただろう。
旱害罹災によって生じた哀話の現実
 そのことが窺える次のような記事が翌日の同新聞にあった。それは次のような
【Fig.3 昭和2年1月26日付 岩手日報】

  旧年末を前に本県下の農村は破産の状態
   借金の苦しさに土蔵を売払ひ家を閉ぢて逃げ隠る
二三年この方つゞいた未曾有のカン魃とお米が捨て売り同様の安値のため農村では旧年末を前に悲境のドンぞこに落ちてゐる。これがため家財を売り、遠くで稼ぎに赴いた者も数少なくない模様で稗貫郡某村の如きは中産以上の農家でさへ年末の支払ひに二進も三進も行かず、祖先伝来の土地を売り払ったとの哀話もあり、毎日借金取りに攻められるので致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であった紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその惨状は全く事実以上であらうとのことだ。かくて本県下の農村はいまや経済上破産状態にあるがやがて本県にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
というものであり、「旱害の程度も一層深酷であった紫波地方の難民」はもとより、稗貫郡内でもこのような農家の哀話が起こっていたということになる。
 また、同日の紙面には次のような記事もあった。
【Fig.4 昭和2年1月26日付 岩手日報】

  旱魃義捐募集に深甚なる感謝 日詰署長より罹災者を代表して本社へ

 かくの如く、大正15年稲作の大旱害については早い時点から、稗貫郡内もそうだが、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村、不動村、志和村はたまた古館村等の旱害被害の惨状は目を覆うばかりであるという報道が連日のようになされていた。

あの昭和2年2月1日付『岩手日報』の報道
 そして、次が例の新聞報道
【Fig.5 昭和2年2月1日付 岩手日報】

であり、それは次のような記事であった。
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
 そこには、大旱魃によってその頃悲惨の極みにあった紫波郡や稗貫郡内の農民たちへの言及は一言もないし、残念ながらそれに対する配慮があったとも言えない。それは、その記事内容はその頃その農民たちがおかれていた窮状とは全く対極的なものであったと言えるからである。

 どうやら、当時の賢治の社会認識は残念ながらあまりにも貧しかったと言わざるを得ないようだ。それは、前年の約一ヶ月の大金を費やした滞京を併せ考えればなおさらに、である。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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