みちのくの山野草

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隣の大旱害に無関心だった賢治

2019-02-11 08:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、大正15年の岩手県産米の作柄がどうだったのかというと、『岩手県災異年表』(昭和13年)によれば、
 大一四年 豊作  米作反当収量 二石一斗七升
 大一五年 不作
 昭和四年 不作
 昭和六年 不作   
 昭和八年 豊作  米作反当収量 二石二斗五升  
 昭和九年 凶作
ということだし、「不作」年と「凶作」年の場合の稗貫郡及びその周辺郡のデータを同年表から拾って、「当該年の前後五ヶ年の米作反当収量に対する偏差量」をグラフ化してみると次のようになる。

 よって大正15年の、赤石村を始めとする紫波郡の大旱害はやはり相当深刻なものだったというこが改めてわかるが、稗貫でも結構不作だったということもまたわかる。ということであれば、あの賢治のことだからこの旱魃や旱害に対して、巷間いわれているようにさぞかし「農民のために徹宵東奔西走した」であろうし、全国から陸続と救援の手が差し伸べられているというのに地元の我々が負けてはならじと、罹災者を救援せんとして賢治は先頭に立って協会員とともに救援活動に粉骨砕身したことであろう。

 では、下根子桜に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものは何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(投稿者略)…私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(投稿者略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~より>
 さて、この伊藤の語るところの「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」の「その頃の冬」とは何年の何月頃のことだろうか。まずは、伊藤が語っているこのような「樂しい集まり」が行われたのは少なくとも昭和2年の4月頃以降ではなかろう。その頃以降の賢治は、農民等に対しては肥料設計などの稲作指導しかほぼ行っていなかったはずだからである。とすれば、それ以前の冬にこのような事柄が行われたであろうし、『新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は、
◇大正15年
11月29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 上京
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
      エスペラント、タイプライター、オルガン習得
      図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義 農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を引いていった。
というこだから、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」というところの〝冬〟とは本来ならば大正15年12月頃~昭和2年2月頃の間となろうが、この場合それはもっと限定されてしまって、
 伊藤が、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という期間は昭和2年の1月のほぼ1ヶ月間のことである。
となってしまうであろう。なぜならば、その冬の12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は「悲しい日がきてゐた」ということでもはやそれ以降は、楽しい集まりになり得なかったと判断できるからである。
 したがって逆に言えば、隣の郡内の紫波一帯は大旱害であることが知れ渡っていた昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集まりの日」を持ってはいたが、彼等がこの旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりした昭和2年1月であったとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 しかも、「農民のために徹宵東奔西走した」と巷間言われている賢治ならば、東京の小学生でさえも義援金を贈っていたというこの時の紫波郡内の大旱害でもあるから、賢治はその救援のために徹宵東奔西走していたはずだ。しかも、それは老農とか聖農といわれる賢治にまさにふさわしい献身だから多くの人々が褒め称え語り継いでいるはずだが、残念ながらそのような証言等は誰一人として残していない。したがって、賢治はこの大旱害の際に、何一つ救援活動をしていなかったと判断せざるを得ない。しかも、実は下根子桜に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。
 となれば結局のところ、賢治は大正15年の大旱害で近隣の多くの農家が苦悶していた時に松田甚次郎とは違って慰問することも、自身が、あるいは協会員と共にその救援活動をするわけでもなく、それどころか、賢治はこの時のヒデリに無関心であったと言わざるを得ない。なおかつ、羅須地人協会の活動は地域社会にリンクしていなかったとなってしまうのではなかろか。

 したがって極めて残念なことだが、常識的に判断すれば、少なくともこの時の大旱害に於いては、どうやら
 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
であったということになってしまうし、それだけでなく、賢治はこの時の大旱害に対して無関心でいたということになってしまう。延いては、
 少なくともこの当時の賢治も「羅須地人協会」も、そしてその活動も地域社会とはリンクしていなかった。
という、思いもよらなかった残念な結論を出さなければならなくなってしまった。だから当然、この無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていったはずだ。 
 そしてこの時の、隣の郡の大旱害に無関心であったと言わざるを得ない賢治と、山形県出身なのにわざわざそこへ慰問に行った甚次郎との間にはもともと越えがたいバリアーがあったのかもしれないということを私はそろそろ受け容れねばならないようだ。  

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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