みちのくの山野草

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全てが皆繋がった

2024-02-14 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露

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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 全てが皆繋がった
荒木 そういうことだったのか。賢治は皮肉を連ねてはいるけど、内心怒り心頭だったのだ。まさに、この時の賢治の激昂振りと「曾て賢治にはなかつた事」のそれとはそっくりではないか。これのことだったのだな、吉田が先に「この証言で全てが皆繋るんじゃないかな」とのたもうたのが。
鈴木 なあるほど、そういうことか。
吉田 先に引用したように、この中舘と賢治との間のやりとりに関して山内修氏は、「普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが」と疑問を呈している。
荒木 確かに。もし自分に非がなかったのであれば、賢治も当時既に三十半ばだったのだから何もそこまでムキになる必要もなかっただろうからな。
鈴木 まして中舘は盛岡中学の先輩だ。その中舘に対して賢治が「呵々。妄言多謝」と述べているわけだが、とりわけ上下関係の厳しかったであろう旧制中学であったということを考えれば、当時とすればあまりにも失礼な賢治の言動だったであろう。
吉田 しかし現実にはそのようなことが起こっていたわけだから、それは、賢治からすれば相当痛いところを厳しくズバリと中舘から指摘されたということの裏返しだろう。
荒木 そうだよな、大人の分別をもって「黙殺」すればいいのに。ということは、賢治は余程腹に据えかねていたということか。
吉田 では一体その時どんなことを賢治は中舘から言われたのかというと、残念ながらその内容については従前知られていなかった。ところがこの度、
 露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言った。
という証言を教わって僕はピンときた。まさしくこの賢治の行為ならばその「内容」にピッタリと当て嵌まると。
荒木 確かにな、小笠原家に嫁いだばかりの露の許にわざわざ賢治が訪ねて行ったのだから、露は立場がなくなるし、もしこれが夫の小笠原牧夫や小笠原家の人々に知れてしまったならば、当時のことだからただでは済まない。なにしろ、小笠原家は遠野南部の士族の中でも最上位の家柄なのだからこのことは噂となってたちどころに広まったであろう。
鈴木 それではこれで大体実験道具は揃ったようだから、あとは一つだけ
 「昭和7年に賢治は遠野の露に会いに行った」という「噂話」が花巻にも伝わってきた。……④
ということを仮定して、先程の「吉田の翻訳」をもう一度し直してくれないかな。
吉田 それではその仮定と、今までのことを踏まえ、僕が先に翻訳したことを修正しながら思考実験をし直してみると、
 賢治と親しいXが、「昭和7年、遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところに賢治が訪ねて行った」という「噂話」が広がっているということを知ったので、早速Xは賢治にご注進に及んでこの「噂話」を告げたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に出かけて行き、露を遠野に訪ねた事についていろいろと弁解して行った。
 その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと佐藤勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。
 それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Xのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
 そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は、日頃から賢治のことをよく知っている関登久也からすれば、「私は違つた場合を見た様な感じを受けました」と見えた。
ということになるだろう。
鈴木 そうか、今まではこの「噂話」の中身がわからなかったからいま一つ釈然としなかったが、これですっきりとした。
荒木 でもさ、どうして「関登久也の家に」だったのだべ?
鈴木 素直に考えれば、
 賢治に訪ねてこられた露としては彼のその行為は迷惑この上ないことだったから、そのことを花巻高等女学校の級友でもあった関登久也の妻のナヲに『賢治さんが私のところに訪ねてきたので困っている』と相談した。
というあたりだろう。
 というのは、それ以前にも、露が賢治から貰った本を返却しようとした際に露はナヲにそれを頼んでいたから、その可能性は充分にあり得るからだ。しかも、その本の返却の件を夫の登久也が日記に書いているくらいだから、この「噂話」の場合もナヲは夫の登久也に話したであろう。そしてそれが登久也からXにも伝わっていったのであろう。
吉田 そうすると、以前〝曾て賢治氏になかつた事〟で話題にした関登久也の「面影」の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
(傍線〝   〟筆者)
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>
において、
 賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ
   →「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」
という「風聞」があるという
と置換すればすんなりと当て嵌り、すんなりと理解できる。
鈴木 なるほどな。一瞥、この「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」そのものからは、いかにもその「女の人」の側の行為にこそ問題がありそうな印象を受けるが、もしこの「女の人」が実際「賢治氏を中傷的に言ふ」たのであれば、それが露であるということの蓋然性は極めて低い。そのようなことをする時間的余裕がない、遠距離であるという地理的困難さがある、そもそも結婚したばかりの露が賢治を中傷する必然性がない等々、少なからずその理由は挙げられるのだから。
荒木 それと比べれば、実質的には昭和7年に、「賢治は遠野に露に会いに来た」という意味の露本人の証言があるのだから、賢治のこのような行為があったという蓋然性の方が遙かに高かろう。こちらならばその中身が具体的にわかっているわけだが、一方の「賢治氏を中傷的に言ふ」たについてはその中身が何かもわかっていないのが実態だから、なおさらにだべ。
吉田 だから、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」は実は事実ではなく、真相は「昭和7年、賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」という「風聞」があったということさ。
鈴木 ではそろそろ思考実験はこのあたりで終えることとして、この思考実験の結果も踏まえ、なおかつ先の仮定〈④〉以外の推測部分は極力排除してまとめてみようか。
荒木 まかせろ、それは大体こういうことになる。
 昭和7年のこと、
(1) 賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねて行った。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」という程度の認識ではあったが、世間一般から見れば常識的にはあり得ない訪問だったのでそれは良からぬ「風聞」となってたちまち広がってしまった。
(2) もちろん訪問された露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた花巻高等女学校時代の級友ナヲに相談した。ナヲはそのことを夫の関登久也に知らせた。そして、登久也から友人でもあるXにそのことが伝わった。
(3) そこでXがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと焦った賢治は関登久也の家に行って弁解した。
なお、関登久也の「面影」の中の
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
と、佐藤勝治の「賢治二題」の中の
 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。
という二つののエピソードは実は同一のものであった。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、実は「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」のことであり、中舘がこの「風聞」を賢治に書簡で伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
鈴木 なるほどな、今までこれらがそれぞれ別個のものだとばかり思っていたが、こうして皆すんなりと全てが繋がった。実は何のことはない、いずれも皆一つのことについて述べていたということだったのか。
荒木 つまり、事の起こりは「昭和7年、遠野の名家小笠原家に嫁いで行った露にあろうことか賢治がわざわざ会いに行った」ことにあったのだったということになるべ。
吉田 したがって、これだけ合理的に説明ができたわけだから逆に、先の仮定〈④〉が現実に起こっていたことも、
 露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に会いに来たことがある』と言っていた。
という意味の証言も、しかもそれが昭和7年であったことも皆信憑性がかなり高いものとなったと言えるだろう。
荒木 どうやら、関も中舘も勝治も、そして露本人も皆このことに関連していると判断できそうな証言を残しているから、「賢治は昭和7年に、遠野に露に会いに行っていた」ということはほぼ事実であり、そしてそれは一大スキャンダルとなったということの蓋然性がかなり高くなってしまったということか。
鈴木 というわけで、次の3つの資料
   ・関登久也の「面影」
   ・佐藤勝治の「賢治二題」
   ・中舘宛書簡下書〔422a〕
における「昭和7年」と思われる露に関する記述内容の幾つかが、<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となる可能性があるかというと、ある一つを除いてはほぼあり得ないだろうということが今までのことからほぼわかった。そしてその「ある一つ」とは、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」のことだ。
 しかし、実はそもそも果たしてこの「賢治氏知人の女の人」 が露その人であるかどうかもはっきりしていないし、はたまた露がそのようなことをしたという何らかの裏付けがあるというわけでもない。しかも、中傷的に言ったというその中身も全くわかっていないのだから、所詮これは「あやかし」に過ぎない。
吉田 しかもこの「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」の部分は実は嘘であり、この部分は正しくは、「「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という風聞が広まっていた」という蓋然性も、また、「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」ということ自体の蓋然性もそれぞれ極めて高いということも共に知り得た。
 もちろん、これらの3つの資料の中に今回のことに関わって露がその非を問われるものは前掲の「ある一つ」以外にはないし、一方では、賢治のそれはかなりあると言ってもよいということもまたわかった。
 したがって、これらの3つの資料のいずれによっても〈仮説:高瀬露は聖女だった〉が棄却されるということはない。そんなことをしたならば、それはあまりにもアンフェアなことだということもあるが、それ以前にこの「ある一つ」それこそが「あやかし」なものなので、そんなもので検証などはできないからだ。
鈴木 それから、これら以外のことで「昭和7年」において検証作業をせねばならない資料や証言は今のところないはずだから、これで「昭和7年」に関してはその作業は全て終了した。
荒木 ということは、「昭和7年」関連についてもこの<仮説>の反例は何一つ見つからなかったから、やはり今回も
  <仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてよい。
ということか、いやあ嬉しいな。先についつい口からぽろっと出てしまったが、いよいよこの<仮説>は「晴れて雛になって歩み始める」ことができそうだ。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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*****************************************************《上田哲の論文掲載の経緯等》********************************************
 『宮澤賢治と高瀬露』は上田哲との共著であり、次の二部構成になっている。
   Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―       上田 哲
   Ⅱ  聖女の如き高瀬露                       鈴木 守
 そしてこの共著の最初の頁を、 
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について】

としたように、不思議なことに、上田哲の上掲論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―」が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は殆どなく、私が調べた限りでは唯一金沢大学付属図書館だけだった。よって、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
 そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
 ちなみに、著作権のこともあるので同論文の全てはここには載せられないが、その「1頁目」は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の1頁目】

であり、その最終頁は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の21頁目】

となっている(ただし、なぜか未完に終わっている)。

 同論文の全てを載せることは著作権の関係上本ブログでは出来なかった。また、この共著『宮澤賢治と高瀬露』の在庫はもうありません。ただ、この上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ― <悪女>にされた高瀬露―」は、令和2年に出版した

 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』 (森義真、上田哲との共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)
     

にも所収されていますし、同書は現在アマゾン等でも販売されておりますのでどうぞそちらでご覧下さい。

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