みちのくの山野草

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寶閑小学校時代の露

2024-02-08 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 遠野時代の露
 実は、露は「露草((註三))」という号を用いて、昭和14年12月13日に「賢治先生の靈に捧ぐ」と題して次のような歌を五首詠んでいる。
・君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
・ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
・オツペ((ママ))ルに虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
・粉々のこの日雪を身に浴びつ君が德の香によひて居り
・ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
<『イーハトーヴォ第四號』((菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)より>
 また、昭和15年9月1日には「賢治の集ひ」と題して、こちらの場合には小笠原露の名で次のような歌四首を詠んでいる。
・師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
・女子のゆくべき道を説きませるみ師の面影忘られなくに
<『イーハトーヴォ第十號』(同)>より>
 一方で、『イーハトーヴォ創刊號』(同)には露の名こそ顕わに使っていないものの、それが露であることがわかる人にはわかるような書き方でいわゆる<悪女伝説>をゴシップ仕立て(後述する)で載せている。したがって、おそらく露は自分がそのような扱い方をされているということを知りつつも、「み師」などの尊称を用いて、崇敬の念を抱きながら賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたということがこれでわかる。
 一方、上田哲は高瀬露本人から直接聞いたのであろう、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
<『図説宮沢賢治』(上田、関山等共著、河出書房新社)93p~より>
とも述べている。
 もはや、以上の事柄だけからしても露が賢治に対してどのような想いを抱きつづけたか、また露の品格が如何なるものであったかが容易に推察できる(とはいえ、前掲の「オツペ((ママ))ルに虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ」や「いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心」の歌からはとりわけ、必死に耐えている健気な露の姿も私の眼に浮かぶのだが)。
 ところで、露は昭和7年に遠野在住の小笠原牧夫と結婚をし、その後は帰天するまで遠野で暮らした。その遠野時代の露に関しては、上田哲はかなりの検証をした上で前掲論文〝<悪女>にされた高瀬露〟を平成8年に発表している。その論文によれば、遠野の歌人で尾上紫舟賞受賞者菊池映一氏からは、
(露さんは)病人、老人、悩みをもつものを訪問し力づけ、扶けることがキリスト者の使命と思っていたのである。彼女はわたしだけでなく多くの人々に暖かい手を差し伸べていることがいつとはなしに判り感動した。……(筆者略)…昔の信者の中には、露さんのような信者をよく見かけたが、今の教会にはいない。露さんは、「右の手の為す所左の手之を知るべからず」というキリストの言葉を心深く体していたような地味で控えめな人だった。
という証言を得ているという。また、青笹小学校勤務時代に露と同僚であったという工藤正一氏からは、露に関して、
 仕事ぶりは真面目で熱心な方でした。良く気のつく世話好きな人だったので児童からもしたわれていました。それから人ざわりの良い、物腰の丁寧な人で、意見が違っても逆わない方だったので同僚や上司、父兄、周囲の人々に好感をもたれていました。
<共に『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)80p~より>
という証言も得ているという。
 そして上田自身はといえば、「短歌にかこつけて土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった」と同論文で述べている。
 なお上田は同論文中に続けて、賢治の教え子澤里武治の「周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった」と述べているが、少なくとも筆者の私が取材した限りにおいてはそのようなことはあまりないと推察できる。なぜなら、武治の家は露の嫁いだ小笠原家と道路を挟んで筋向かいだが、それこそ武治のご子息である裕氏が、
 父は露さんのことを一言も悪口を言ったことがない。
と証言(平成26年11月25日)しているくらいだからである。
 あるいはまた、次のような同僚の証言もある。それは佐藤誠輔氏氏のもので、
 私と妻は晩年の小笠原露と同じ学校に勤めたことがある。既に子供たちを育て終え、養護教諭となっていた彼女は、人の悪口を言わない教師として、同僚たちから一目置かれていた。
<『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所、平16)93pより>
と、自身の論考「宮沢賢治と遠野 二」の中で証言している。実際、直接私が佐藤氏にお会いした(平成24年10月30日)際も、同氏は開口一番、 
 露先生は人の悪口を言わない教師として、同僚たちから一目置かれていおりました。
と話し、前掲の上田哲の論文を示しながら、
 このお二方、菊池映一さんも工藤正一さんもよく知っております。露さんはこのお二方が証言しているような人でした。
ということ、さらには、
 露さんの夫小笠原牧夫氏は当時鍋倉神社の神職だったので、クリスチャンであった露さんは信仰上の悩みもあったと思いますが、露さんのお義母さんは『とてもよい嫁が来てくれた』と言って、露さんのことを大事にしてくれたとのことです。勤めに行く露さんを三つ指ついて送り出したということですよ。
ということなども教えてもらえた。
 そしてその時に佐藤氏と直接お会いして一番印象的だったことは、『高瀬露はどの様な人だったのですか』と私が訊ねたならば佐藤氏はおもむろに、
   大人でしたね…。
としみじみ話されたことだった。露がどのような人であったかがこの象徴的な一言で私はかなりわかったような気がした。そして、巷間言われている伝説のような女性ではないと直感した。
 さらには、遠野時代の教え子A氏にもお目にかかれた(平成26年7月14日)。そして同氏からは、
・昭和十年代、遠野尋常高等小学校で露先生に担任をしてもらった。
・あの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを最近になって初めて知り、今はとてもびっくりしている。決してそのような先生ではない。
・露先生はとても優しくて、例えば授業が終わる少し前にはいつも佐々木喜善の民話を話してくれたり、リンゴの皮のむき方を丁寧に教えてくれたりするような先生でした。
・同氏の家と露先生の家は近かったから、先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
 母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教えてもらった。
 したがってこれらの事柄から総合的に判断すれば、遠野時代の高瀬露は評判のよい敬虔なクリスチャンであり、<悪女>どころか<聖女>のような人であったと言った方がふさわしい。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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