みちのくの山野草

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『宮澤賢治研究2』(宮澤賢治友の会)

2021-12-08 10:00:00 | 一から出直す
《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

 さて、【宮澤賢治研究2』(宮澤賢治友の会、昭和10年6月)】


には、賢治の教え子の一人である冨手一の寄稿「宮澤先生」も載っている。そして私は、冨手は教え子の中では菊池信一と同様に、花巻農学校を卒業した後は農業に就いたと思っていた。そこで、『今日の賢治先生』(佐藤司著、永大印刷出版部)の575pの「人物解説」を見てみたならば、
冨手一 大一一稗貫農学校第一回卒業生。卒業後一時農業→花巻温泉株式会社園芸部主人(ママ)。土壌改良・植木、植栽指導・花壇造営など賢治の指導を仰ぐ。菊花品評会で係として賢治と交渉。農事講演会を開催、賢治を湯本小学校へ呼んだ。戦後リンゴ園経営、県農業会の農業技師を兼ねる。
とあるので、冨手一は専業ではなかったようである。

 そして、『宮澤賢治研究2』には、それこそ農業に従事していた菊池信一の「素描」という追想も載っていて、大正15年の春に、菊池が初めて下根子桜を訪れた際のことなどが述べてある。読み直して、新たに気づいたことはあまりなかったが、以前は次のことは読み流していたので触れておく。
 國道を折れ更に小芝の生々しい路に出ると、もう先生の理想境が直感された。路にそうて短い落葉松がまばらに植付けられ 、それもきれた向ふ端に銀どろが精よくのびて、風もないのに白い葉うらが輝いてゐた。
             〈『宮澤賢治研究2』18p〉
 というのは、この追想によれば、今でも秋になると黄色い葉を落として路を飾るあの落葉松はやはり賢治が手植えしたものだと断定してよさそうだからだ。ちなみに、賢治は落葉松が大好きだったようで、作品に時に登場させている。例えば、1922/05/21に詠んだであろ詩『小岩井農場 パート九』の最後にラリックスという名で次のように詠み込まれている。

   もうけっしてさびしくはない
   なんべんさびしくないと云ったとこで
   またさびしくなるのはきまってゐる
   けれどもここはこれでいいのだ
   すべてさびしさと悲傷とを焚いて
   ひとは透明な軋道をすすむ
   ラリックス ラリックス いよいよ青く
   雲はますます縮れてひかり
   わたくしはかっきりみちをまがる
              <『校本 宮沢賢治全集 第二巻』(筑摩書房)より>
 そこで、下根子桜への「路にそうて短い落葉松がまばらに植付け」られていたにちがいない。

 そしてまた、この追想で気になったのは、その末尾が、
  ……夜道を歸つた。(未完)
となっていたことだ。今までに何度かこの追想を読んだ記憶があるが、例えば『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)には、この〝(未完)〟は付記していなかったからだ。なぜ〝(未完)〟のままだったのだろうか。菊池は生真面目な好青年だったはずだから、不思議だ。なお、『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣 寛著)の91p~によれば、
 菊池信一の入営は、昭和5年1月10日 現役兵として歩兵第三十一聯隊第九中隊に入隊
 軍隊への応召入隊は、昭和12年8月20日
 そして、昭和12年12月12日朝鮮国境豊台で戦死
であったというから、このようなことなどが影響したのであろうか。

 それから、『宮澤賢治研究2』には高村光太郎の「宮澤賢治に就いて」も載っている。あの有名な「詩人(デヒテル)」が登場する次のようなものだ。
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて來てみると、日本の文學家の中で、彼ほど獨逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一卷を讀み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの遺稿を目にし、又その日常の行藏を耳にすると、その詩篇の由來する所が遙かに遠く深い事を痛感する。彼の詩篇は彼の本體から迸出する千のエマナチヨンの一つに過ぎない。彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。ギヨオテガ(ママ)「詩人」であると同樣の意味での彼は「詩人」である。日本文学史の上に彼の持つ新らしい意義の重點を私は此所に置く。
             〈『宮澤賢治研究2』20p〉
 よって、光太郎は賢治のことをゲーテに勝るとも劣らない程の詩人であると、この時点で褒めちぎっていることが分かる(ただし、「宮澤賢治に就いて」は『宮澤賢治全集内容見本』における『宮澤賢治全集』(文圃堂)の宣伝文であるということだから、少し割り引いて受け止めるべきかもしれないが)。

 それから、前掲の目次の2項目に「宮澤賢治 遺稿(詩)」とあるが、その中身は以下のようなものであり、

タイトルはついてはいないが、もちろん、いわゆる「雨ニモマケズ」である。さて、ではこの中身を具体的に確認すると、
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノアツ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病氣ノコドモアレバ
  行ツテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ツテコワハガラナクテモイイトイヒ
  北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボトヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
となっている。
 一方で、かつて、〝1717 「雨ニモマケズ」の最初の公表〟で投稿したように、「雨ニモマケズ」の「初出」と言えるものがこれで、
《2 学藝第八十五輯 宮澤賢治氏逝いて一年 遺作(最後のノートから)》

             <昭和9年9月21日付『岩手日報』の4面より>
  雨ニモ負(→マ)ケズ
  風ニモ負(→マ)ケズ
  雪ニモ 夏ノアツ(→暑)(抜け→ニ)モ負(→マ)ケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテイカ(→瞋)ラズ
  イツモシヅカニ ワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトニ(→ヲ)ジブンヲカンジョウニ入レズ(抜け→ニ)
  ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ(抜け→林ノ)(→蔭)
  小サナ茅(→萱)ブキノ 小屋ニヰテ
  東ニ病氣ノ子供(→コドモ)アレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニ疲(→ツカ)レタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコワ(→ハ)ガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンカ(→クワ)ヤ ソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデ(→ド)リノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニ デクノボウ(→ー)トヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ ワタシハナリタイ
である。つまり、かなりの誤りがある。

 それが、『宮澤賢治研究2』においては、「初出」の誤りは殆どが訂正されていたことになる。そしてこの『宮澤賢治研究2』は草野心平編で、しかもこの出版は昭和10年6月であるから、心平はこの形の「雨ニモマケズ」をこの時点で是としていたことになる。よって、たとえばY氏が、「とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね」というように、光太郎一人だけを責めるのは酷だということである。しかも、そのY氏自身が、
 賢治が昭和八年九月に亡くなり、それで開かれた新宿のモナミ会合が昭和九(一九三四)年二月一六日。そのあとになって、光太郎の墨書、碑を作るための下書きを書いたのが昭和十一年八月から十一月の間だろうといわれています。
             〈『ぼくはヒドリと書いた。宮沢賢治』(山折 哲雄・綱澤 満昭著、海風社)26p~〉
と述べているのだから、初出の昭和9年9月21日付『岩手日報』では「ヒデリ」だし、昭和10年6月の草野心平編『宮澤賢治研究2』でも「ヒデリ」なのだから、この「碑を作るための下書きを書いたのが昭和十一年八月から十一月の間だろうといわれています」という時機に注意すれば、第一に責められるのは高村光太郎では全くなく、少なくとも心平の方であろうことが導かれる。
 しかも、『宮澤賢治研究2』(草野心平編、昭和10年6月)では初出の間違いが殆ど直されているというのに、唯一、
    ミンナニデクノボトヨバレ
となっていて、この部分は正しくは「ミンナニデクノボートヨバレ」だから、直されていない。そして、以前〝「写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫」〟において投稿したように、
 詩碑は結局「雨ニモマケズ」の後半、「野原ノ……」以下の部分に決まり、光太郎に依頼した書は十一月はじめ、花巻に届いた。花巻の石工近藤清六の手で彫り上げられ、除幕されたのは十一月二十三日のことである。のびのびと明快な楷書で認められた詩文は、謹厳な内にも温かく見るものを含む。しかし揮毫された詩には若干の脱落があった。その事情を光太郎は書いている。
 令弟宮沢清六さんから詩碑揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取った詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、/さて後に拓本を見ると、あの詩を印刷されたものにある「松ノ」がぬけていたり、その他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿を見ると、その原稿には小生のバウがボウであった事をまた発見しました、/つまり清六さんが書写の際書き違った上に、小生がまた自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違えていた事になります、       (昭和18 川並秀雄宛)
             <『高村光太郎 書の深淵』(北川太一著、高村規写真、二玄社)111p>
ということだから、宮澤清六にも責任があるということも否定できない。
 別の見方をすれば、光太郎のこの正直な発言「その原稿には小生のバウがボウであった事をまた発見しました」からは、光太郎は自分のこの間違いについては素直に認めていることが判るし、一方で、『宮澤賢治研究2』では初出の間違いが殆ど直されているというのに、「ミンナニデクノボトヨバレ」だけは「」となっているから相変わらず間違っているわけで、「清六さんが写し取った詩句の原稿」そのものにも間違いがあったという可能性を否定できない。それは、光太郎の碑文

と「その原稿には小生のバウがボウであった」という自分の過ちとが符合しているという事実からなおさらにである。
 なお、もちろんその後追刻されて、やっと正しく「ミンナニデクノボートヨバレ」というように、

と直されていることは承知の通りであろう。

            《賢治詩碑》(平成31年12月13日撮影)
 畢竟、
 とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね
というように光太郎一人だけを非難することは、しかも「とにかく」などという言い方をするということははたして如何なものか、と私は言いたい。

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