みちのくの山野草

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1853 高村光太郎の名誉のために

2010-11-25 08:00:00 | 賢治関連
     《1↑『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》

 最近恩師より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。
 興味深く読ませてもらった。その中に「宮沢賢治・二宮尊徳と『遠野物語』」という対談があり、それは山折哲雄氏と石井正己氏のものであった。その対談を読んでみてやはりこのままではいけないと思ってこの投稿を開始する決意をした。

1.山折氏の「ヒドリ」観
 山折氏の対談といえば、以前”細やかな仮説の検証”で『デクノボー宮沢賢治の叫び』という吉田司氏との対談集に触れたことがあった。その際には言及しなかったことだが、その対談の中でとても気になっていたことがあった。
 それは『「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」と「ヒドリ」』という節の部分で、W氏(今まではこのイニシャルを用いて表してきたが実は和田文雄氏のことであり、私の主張を展開するために今後本名を用いることにしたい)の仮説・主張を引き合いにしたものである。そこでの発言と同じ様な趣旨の発言をこの「宮沢賢治・二宮尊徳と『遠野物語』」でもしている。

 では『デクノボー宮沢賢治の叫び』の方で山折氏のその発言を見てみよう。”「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」と「ヒドリ」”の中で次のように語っている。
 …… 
山折   ヒドリというのは、当時、短期または臨時的な就労機会を意味した。日取り稼ぎの労働という言葉だった。土木作業とか、荷物の上げ下ろしが主で、これは農繁期に集中していたのだという。だから、「サムサノナツ」で、農村が疲弊して仕事がなくなったときに、その日銭稼ぎのための土木作業が、すなわちヒドリだったのだと。
 ……228p~
 もうひとつ、南部藩の公用語として、手間労働を「日用取」と書いて、ヒドリと呼んでいたという。「日傭稼」「日手間取」「手間取」とも書いている。これが全部、ヒドリを意味したってわけだよね。貧困の生活はにわずかに残されていた、細い細い道がヒドリの道だったと彼は言っていますよ。
 で、南部藩では当時、自分たちの領民が他の領土に出て行くことを禁止していた。これはどの藩でも同じですね。国境を越えてやる日雇い稼ぎも同じようにヒドリと呼ばれていました。
 ……230p
 ヒドリはかならずしも花巻地域で使われていた局地的な方言ではなく、もっと一般的に使われていた公用語であったと、こう結論しているんです。この和田文雄さんの意見はきくべきだと思いますね。説得力があるし、いろんな広がりをもっている説だと思う。
 それから、例の「雨ニモマケズ」の詩ですがね、
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 この文章についても、ヒデリのときは涙なんか流さないはずだといっている。日照りのときは決して農民というものは涙を流さない。
 ……230p
 実際、昭和四年のときのデータでは、七、八月に異常な高温で日照りになった。そのときの陸稲と水稲の収穫状況をデータで調べてみると、水稲はそんなに減収になっていない。そういう状況から、やっぱり「日照りに不作なし」という言い伝えは正しいのだという。
 このようにみてくると、ますますヒドリをヒデリに直すのは間違いで、おかしいことになる。当時の農村の状況を理解していないことにもなる。僕はこの和田さんの本をよんで、これは認めざるを得ないかなと思ったな。詩、童話などの文献だけの世界で、言語的な操作だけで、ヒデリだと結論を下すのは、どうかなと思うよ。もっと広い立場にたって考え直すべきときにきているのではないだろか。
 ……231p
 とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね。地元の事情があまりわかっていなかった。その点では僕なんかと同じで、ひとごとではないわけですが、注意しなければいけないところなんだ。
 ……232p
 でも「ヒドリ」の解釈としては、あとひとつあるかもしれないと思っている。小倉豊文さんが言い出したことなんだけれど、「ヒトリ」という読み方があるだろうと。ひとりで涙を流すという場合の「ひとり=一人」という解釈です。これは僕が宮沢賢治を考える上で勝手に想像してい好きなイメージなんですよ。
 だから結局、この「ヒトリ」と「ヒデリ」と「ヒドリ」という三説がある。あっていい、と僕は思うようになっていたんです。だけど、今は和田さんの「ヒドリ」説にちょっと傾いている。だんだん「ヒデリ」の説から気持ちが離れるようになっている。
 ……233p

  <『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版、2010年8月30日発行)より>
これが最近の山折氏の「ヒドリ」観のようである。
 さて、山折氏の以上の発言に対して私は何点か疑問があるが、今回は高村光太郎の名誉のために先ず次の疑問点に関して述べたい。

2.光太郎は濡れ衣
 それは
 『とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね。地元の事情があまりわかっていなかった。その点では僕なんかと同じで、ひとごとではないわけですが、注意しなければいけないところなんだ』
という部分である。
 山折氏がここでいう『ヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね』とは、下根子桜に建っているいわゆる「宮澤賢治詩碑」の碑文に関してのことだろうが、はたして山折氏の言うとおりなのであろうかという疑問である。少なくとも光太郎が「ヒドリ」を「ヒデリ」に書き替えたということはありえないのではなかろか。
 なぜなら、光太郎は言葉を大切に扱う詩人でもある、他人の詩の中の文言を勝手に、それも「ヒドリ」を含む数ヶ所を書き替えるという詩人にも悖るような行為を光太郎自身がするとは到底考えられないからである。とはいってもこのような理由では説得力に欠けるだろうから、次の事実を基に考えてみたい。

 先ずこのブログの先頭に掲げたのは、昭和9年9月21日付岩手日報4面に掲載されたものであり、その中身は以下のとおりである。
     遺作(最後のノートから)
                故宮澤賢治

  雨ニモ負(→マ)ケズ
  風ニモ負(→マ)ケズ
  雪ニモ 夏ノアツ(→暑)(ニ)モ負(→マ)ケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテイカ(→瞋)ラズ
  イツモシヅカニ ワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトニ(→ヲ)ジブンヲカンジョウニ入レズ(ニ)
  ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ(林ノ)(→蔭)
  小サナ茅(→萱)ブキノ 小屋ニヰテ
  東ニ病氣ノ子供(→コドモ)アレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニ疲(→ツカ)レタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコワ(→ハ)ガラナクテモイヽトイヒ
  行ッテ
  北ニケンカ(→クワ)ヤ ソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデ(→ド)リノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニ デクノボウ(→ー)トヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ ワタシハナリタイ

<註:『「雨ニモマケズ」手帳』では正しくは赤文字のようになっている。かなりその個所が多い。おそらくこの原稿を書いていた人は『「雨ニモマケズ」手帳』そのもを見て確認していないからだと思う。>

というわけで、宮澤賢治の一周忌にはいわゆる「雨ニモマケズ」は世間に少なくとも活字で公表されていたのである。そして、くだんの
   「ヒデリ」の部分はもうこの時点で既に「ヒデリ」になっていた
のである。

 一方、次が
《2『宮澤賢治君詩碑建設趣意書』》

の現物の写真であり、その趣意書の日付は昭和11年9月となっていることや、碑面には農民芸術概論から「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」などの3句を抜いて刻し、と書いてあることからこの趣意書が配布された頃はまだ碑文が最終決定なされていなかったことがなど分かる。したがって、「宮澤賢治賢治詩碑」の碑文を光太郎が揮毫したのは昭和11年頃であろう。少なくとも昭和9年9月21日以前は到底あり得ないはず。

 よって以上のことから、「宮澤賢治賢治詩碑」の碑文を光太郎が揮毫する以前に既に
     「ヒドリ」は「ヒデリ」
になっていたのである。書き替えたのは少なくとも高村光太郎ではないと考えて間違いなかろう。

 なにも
《3 宮澤賢治詩碑の碑文》

     <『雨ニモマケズ詩碑の由来』(高村記念会)より>
が光太郎の揮毫になっているからといって、山折氏が言うところの
 『とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね。地元の事情があまりわかっていなかった』
のようには決め付けられないと思う。そう決め付けられたのでは光太郎があまりにも気の毒であり、とんだ濡れ衣だと思う。
 『地元の事情があまりわかっていなかった』と責められるのは光太郎ではなく、別の人であろうと思うのだが如何なものだろうか。

 なお、この追刻した碑文でさえも『「雨ニモマケズ」手帳』の賢治自筆の「雨ニモマケズ」とは同じではないところがある。
 コハガラナクテモイイトイヒ→コハガラナクテモイゝイトイヒ
であり
 サムサノ夏ハオロオロアルキ→サムサノナツハオロオロアルキ
であり
 ホメラレモセズ苦ニモサレズ→ホメラレモセズクニモサレズ
である。
 おそらくこの当時、手帳の中の「雨ニモマケズ」を直接見ることは殆どの人が出来なかったに違いない。一度どなたかが手帳から書き写したものを他の人々が見て覚えたり、書き写したりはたまた孫引きを繰り返していくうちに次第に誤記が増えていったのではなかろうか。

 次回は、「行ッテ」に関して述べてみたい。

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