みちのくの山野草

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1717 「雨ニモマケズ」の最初の公表

2010-09-18 09:00:15 | 賢治関連
   《1↑ 『宮澤賢治氏逝いて一年』の記事(昭和9年9月21日付け岩手日報4面)》
       
 前回の”戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”において、小倉豊文は
 2.印刷公表の最初はおそらく昭和10年6月発行の「宮澤賢治」(草野心平編)第二号であろう。
と推理しているが、実はそれ以前に、少なくとも昭和9年9月21日(賢治の命日)にはもう既に岩手日報の学芸欄に次のように公表されている。可能性としてはこれが最初の「雨ニモマケズ」の公表であり、印刷化だったいえるのではなかろうか。

《2 学藝第八十五輯 宮澤賢治氏逝いて一年 遺作(最後のノートから)》

   <昭和9年9月21日付け岩手日報4面より>
因みにそれは以下のとおりである。
                          故宮澤賢治
  雨ニモ負(→マ)ケズ
  風ニモ負(→マ)ケズ
  雪ニモ 夏ノアツ(→暑)(抜け→ニ)モ負(→マ)ケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテイカ(→瞋)ラズ
  イツモシヅカニ ワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトニ(→ヲ)ジブンヲカンジョウニ入レズ(抜け→ニ)
  ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ(抜け→林ノ)(→蔭)
  小サナ茅(→萱)ブキノ 小屋ニヰテ
  東ニ病氣ノ子供(→コドモ)アレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニ疲(→ツカ)レタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコワ(→ハ)ガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンカ(→クワ)ヤ ソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデ(→ド)リノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニ デクノボウ(→ー)トヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ ワタシハナリタイ


 賢治が亡くなって一年後のこの命日の新聞に投稿した人物は最初、以前からしばしば岩手日報に投稿している森荘已池あたりかなと思ったのだが、この『遺作』に続く記事が『修羅の三相系』小原忠とあるから、もしかするとこの著者小原忠なのであろうか。
 なおこの『遺作』は、「雨ニモマケズ手帳」の中に書かれている『雨ニモマケズ』とは赤い文字部分の違いがあるから、この投稿者はまだこの手帳そのものはまだ見ていなかったに違いない。どなたかが手帳から書き写したものを見せてもらったのでもあろう。

 その小原の
《3『修羅の三相系』》

   <昭和9年9月21日付け岩手日報4面より>
は次のような書き出しで始まっている。
 海鳴りよせくる
 椿森のなか
 ひねもす百合掘り
 今日も果てぬ――
 あれはいつの頃であつたか、夕食は豌豆の御汁を御馳走になつたのであるから、六月頃だつたかその頃だつたかそのころはまだ学生時代であつたから七月の休みに入つてからだつたか北上河畔の『イーハトヴの家』に夕刻近くだつた様に思ふ、ぶらりと訪ねて行つたところ先生は笊に一杯の蒸し豆をもいでゐたそれがピチャピチャ濡れてゐたから雨の上がったあとだったらしい。…(以下略)


 この小原の文書を読んでいてあれっと思ったのが”北上河畔の『イーハトヴの家』”のことである。当時教え子の小原は羅須地人協会でもあった下根子桜の別荘のことを、『羅須地人協会』とは呼ばずにこう呼んでいたのだ、と。
 そういえば、母木光もいつかそのように呼んでいたことがあったということを思い出した。近々その確認報告をしてみたい。
 
 なお、この日の4面は”学芸欄”としてほぼ全面が宮澤賢治関係の特集になっていて、
1.『遺作』故宮澤賢治
2.『修羅の三相系』小原忠
3.『光栄のイーハトヴ集』母木光
4.『宮澤賢治氏についてまた』永瀬清子
5.『トンプクの辯』木矢光次
6.『宮澤賢治全集の事』梅野健三
等の記事を載せている。

 つい、話が横道にそれてしまった。本来ならば『細やかな仮説の検証』をしなければならなかったのだが。次回はその検証を試みたい。


 続きの
 ”細やかな仮説の検証”へ移る。
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