《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
では今回からは、『宮澤賢治研究』(草野心平編輯、宮澤賢治友の会)シリーズに入る。
まずは、『宮澤賢治研究1』(草野心平編輯、宮澤賢治友の会、昭和10年4月20日発行)についてであり、
【その表紙】
には目次があり、私からすれば真壁仁の「農業者としての宮澤さん」が気になるのだが、その前に述べておきたいことは、
【その見返し】
を見て、少なくともこの時点(昭和10年4月20日)で既に谷川徹三は賢治のことを極めて高く評価していたことを知ったということだ。
さて、その真壁仁の「農業者としての宮澤さん」だが、そこではこんなことなど、
⑴ 「稲作挿話」といふ詩は農業指導者としての宮澤さんのすぐれた風格と技術を吾々に、はつきりと示したいゝ詩である。
…投稿者略…この詩の後半にはさうした人間宮澤熱い心情が溢れてゐる。こんな風な地味な實地の勉強への手引きが、どれほど周囲の百姓達を勇氣づけ力を湧き立たせたか。
⑵ 岩手縣下の反當三石二斗の稲作を指導できた宮澤さんである。
⑶ 既に早く昭和三年の頃、宮澤さんが同種の耐冷耐病性を認めて極力奨勵され冷溫のための不作を克服していることは、菊池信一氏の書かれたものに見える。
⑷ 科學人として人間力の可現の最大限をつきとめねば承知できなかった宮澤さんは、あれ程實際家であつたけれどその仕事と作品は農業の面には限られず、むしろ農業と農民の道を、科學の力を全體的にこの世に實理することに依つて解明し得ると見る程も汎く高かつた。
〈『宮澤賢治研究1』16p~〉…投稿者略…この詩の後半にはさうした人間宮澤熱い心情が溢れてゐる。こんな風な地味な實地の勉強への手引きが、どれほど周囲の百姓達を勇氣づけ力を湧き立たせたか。
⑵ 岩手縣下の反當三石二斗の稲作を指導できた宮澤さんである。
⑶ 既に早く昭和三年の頃、宮澤さんが同種の耐冷耐病性を認めて極力奨勵され冷溫のための不作を克服していることは、菊池信一氏の書かれたものに見える。
⑷ 科學人として人間力の可現の最大限をつきとめねば承知できなかった宮澤さんは、あれ程實際家であつたけれどその仕事と作品は農業の面には限られず、むしろ農業と農民の道を、科學の力を全體的にこの世に實理することに依つて解明し得ると見る程も汎く高かつた。
を真壁は述べていた。
一方で、真壁は「陸羽一三二号物語」の中で、
草野心平が編集兼発行人となって『宮沢賢治追悼』が出されたのは昭和九年一月二十八日、賢治永眠後四か月目である。…投稿者略…この冊子で、私は宮沢賢治をはじめて知った。賢治は大正十三年に詩集『春と修羅』および童話集『注文の多い料理店』出版しているのであるから、詩も童話も知らないでいたとは迂闊な話である。
私は『追悼』の巻頭載っている遺稿「龍と詩人」から賢治を読んだことになる。
〈『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局)5p〉私は『追悼』の巻頭載っている遺稿「龍と詩人」から賢治を読んだことになる。
と述べているから、生前の賢治のことも賢治の農業実践も、『宮澤賢治研究1』が出版される昭和10年1月以前はほとんど知らなかったであろう。ただ、真壁は山形県人だし、その頃は既に、「賢治精神」を実践したと言われている松田甚次郞が新庄で活躍していはずだから、風の噂ぐらいは知っていたかもしれないが。
そのような真壁が昭和10年時点で述べている上掲⑴~⑷だから、これらの内容が事実であるという保証は万全ではなかろう(実際私が検証してみた限りでは、事実であるとは言い難い)。そしてまた、真壁は詩人だから、詩に創作はつきもの、そこに虚構があるということは十分に弁えていたはずだが、どうやら真壁は賢治の詩をそのまま還元したがっているきらいがある。逆に言えば、真壁の思いが強すぎて賢治を膨らましすぎているきらいがある。それは、いみじくも真壁が、「陸羽一三二号物語」中で、
私は、詩や童話より、農業技術者、あるいは農民指導者としての賢治にひかれて接近していった。生存中に知らなかったことがひどく残念に思えた。
〈同5p〉と述べていることからも懸念される。つまり、
真壁は賢治にバイアスを掛け過ぎてしまい、賢治を聖人・君子化したり、農聖・聖農扱いをしかねないことを私は危惧してしまう。
なお、『宮澤賢治研究1』には、土方定一の「宮澤賢治氏についての覚書」も載っていて、土方はそこで「農民芸術概論」を基にして、宮澤賢治氏は、岩手県農民詩人であった
と述べているが、坂本遼、猪狩満直、三野混沌等であれば「農民詩人」とは言えても、はたしてそう言えるのだろうか。土方の場合も、「農民芸術概論」の内容ををそのまま還元しているに過ぎないからだ。
それから、『宮澤賢治研究1』には中原中也の「宮澤賢治全集」も載っていて、
私にはこれらの彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。…投稿者略…由来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持って行ったのであつた。
〈同31p〉と語っている。あの中原中也は辻潤と同様に、大正13年時点でいち早く「春と修羅」の素晴らしさを認めていたのだった。
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【目次】
【序章 門外漢で非専門家ですが】
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