みちのくの山野草

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2818 賢治、家の光、犬田の相似性(#29)

2012-08-11 08:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
「自由大学運動」
 さて、これで少しだけ土田杏村のことがわかった。特に、宮澤賢治にも優るとも劣らないと思われそうな土田の博覧強記ぶりは群を抜いているということを知った。まさしく土田杏村は〝知の巨人〟であったのだろう。が、かといって彼は知識だけが豊富な単なる評論家に過ぎなかったのかというとそうでもないようだ。というのは、渋谷定輔が次のように
 土田杏村は、文明批評家としての総合的見地から、文化学の大系化を目ざしていました、そして満身の生命力を集中して四十四年の長からざる生涯を終わっています。ことに「大学はいかにあるべきか」が切実に問われているこんにち、杏村が大正期に実践した「自由大学運動」は、今日から見ても極めて貴重な経験であると思います。
 それは日本の人民自身の立場に立つ自主的な労働大学構想なのです。つまり学生は家や職場で労働に従事しながら、高度の大学教育を受ける学生と教師の自主的な教育組織の具体的実行運動でありました。これが当時の教育界に画期的な衝撃を与えたのも当然のことでしょう。〝杏村によって始まり、杏村とともに終わった〟とまでいわれる「自由大学運動」一つあげてみても、三十六年前に亡くなられた杏村が、いまこそ正当な評価を要求すべき時点ではないかと思われます。
<『大地に刻む』(渋谷定輔著、新人物往来社)35pより>
と述べているからだ。土田は「自由大学運動」の実践家だったというのだ。それも、〝杏村によって始まり、杏村とともに終わった〟とまで言われている訳だから、彼はその運動の提唱者、主催者であったということになろう。
 この「自由大学」については、ブログ『三鷹の一日』の〝自由大学運動90周年記念集会〟の中で次のように述べられている。
自由大学運動は、1920年代から30年代にかけて、長野県をはじめ新潟県・群馬県など全国各地で展開された、地域民衆の自己教育運動として知られています。この自由大学運動の出発点となった上田自由大学は、長野県上田・小県地域で創造的に生きようとしていた金井正・山越脩蔵・猪坂直一という3人の青年たちと、新しい文化運動の実現に意欲を示していた在野の哲学者である土田杏村との人間的な交流の中からつくりだされたものでした。
自由大学の講座の開講時期は、農村青年の時間的な余裕を考慮していわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月までとし、聴講料は1講座3円程度を負担し、人文科学系の講座を中心に、1講座平均5日間、1日平均3時間の講義を行いました。講師には、哲学概論の土田杏村、文学論のタカクラ・テル、法律哲学の恒藤恭、哲学史の出隆、社会学の新明正道、政治学の今中次麿など、学問の分野でも新しい機運を代表する人々が招かれました。聴講者は、1講座あたり40名で、比較的富裕な中農層の農村青年と小学校の教員が多かったのですが、なかには少数ながら芸妓や女教師など女性の参加も見られました。自由大学では、聴講者と講師と学問への情熱でむすばれていました。
ここにも青年に対して理解のある土田の姿があり、彼等のために尽力する彼の姿が目に浮かぶ。
 なお、『土田杏村全集 ⅩⅣ』の中に「我国に於ける自由大学運動に就いて」というタイトルの随筆があるが、それについては次回に触れてみたい。
賢治の実践は孤立していなかった
 さて上記大学の講座開講時期は「農村青年の時間的な余裕を考慮していわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月」であり、聴講者は「比較的富裕な中農層の農村青年と小学校の教員が多かった」ということであり、それは賢治の羅須地人協会における農民講座の開催時期や、比較的富裕な中農層の農村青年が多かったという参加者という点で相通じている。地理的には極めて離れてい賢治と杏村だったが、ともにたまたま結核に罹っていた二人が当時実践していたことは結構同じようなことであったということになりそうである。
 実際その一端は、「土田杏村年譜」からも窺える。例えば、
 大正十年 
  二月 二十二日、長野県へ旅行。上田の哲学会で講義。二十八日帰宅。
 大正十一年
 二月 十三日夜行にて東上。長野県上田へ行く。自由大学での講義。その中頃流感にかかり発熱甚だし。咽喉をおかされ発語不可能となる。二十日病気のまま帰宅。
 十月 十三日朝の汽車で信州へ行く。十四日より十七日まで上田にて自由大学の第二年度の講義。
<『土田杏村全集 ⅩⅤ』所収「土田杏村年譜」より>
というように。賢治と同様結核を煩っている病躯を押して、わざわざ遠くまで出かけて行って「自由大学」の講義をしていた実践家・土田杏村にちょっと感激し、敬服する。一方では、渋谷定輔のような自分より約15歳も年下の小作農家の一青年と平等に付き合い、その人の処女詩集出版の労を買って出るという謙虚で誠実な杏村の人柄に惹かれるとともに。

 とまれ、下根子桜で農民のために尽力しようとしていた賢治の活動は花巻で孤立していたという訳ではなく、当時は同じような考え方に基づいて活動していた土田がおり、多分他の場所にもこの二人と似たような実践をしていた人が少なからず居たということなのだろう。

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