《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
この度ある方から、斑目榮二の『雨ニモマケズ』に高瀬露のことが載っているということを教えていただいた。早速古書店から手に入れた。その表紙が上掲の写真である。内山照子
同書には次のようなことが書かれていた。
松の林の丘の上の家つどいくる人人は、日一日とふへていつた。
その土くさい人人のうちに、ときをり、華やかな色調をそへて、若い婦人がまじるやうになつた。
この婦人は、内山照子と云ふ近鄕の小學校に奉職してゐる女教師であつた。彼女は、賢治が、近在農村を指導講演にめぐり歩いてゐたとき、たまたま、賢治の講演を、自分の小學校の講堂できいたことが緣となつて、この丘の家へやつてくるやうになつた。
照子は容貌も近代的な明るさをもち、性格も積極的であつたので、自然、このむさくるしい男どものつどひである協會中での彼女の存在は、まばゆいぐらゐなものであつた。
照子は、丘の家にくるたびに、そのあたりを掃除したり、よごれものを洗濯したり、靴下の穴かがりをしたりして、まめまめしく働いていた。
「このごろは、うつくしい會員がきて、いろいろとかたづけてくれるから、おほいに助かるす。」
と、賢治は、柄になく小ざつぱりしたシヤツなどきこんで、若い會員たちをうらやましがらせたり、
「そのうちに、また、農民劇でもあるべ、そのときは、一つ、女のでる芝居をやつて、内山さんにでてもらうべ。」
と、かるく冗談をとばしたりしてゐたが、照子の賢治に對する尊敬の念は、次第に思慕のこころにかはつていつた。それは、丘の家をたづねるたびに、はげしい炎となつて、彼女の身をこがしていつた。
照子は、いままで、生き甲斐さへ感じてゐた自分の生活である小さな生徒たちとともにその日その日をすごすことすらが、けふこのごろではくるしくせつなく感じ、夜ごと、そのやるせない胸をかきいだいて、悶えることもしばしばであつた。
照子は、今日こそは、こころのうちのすべてを、賢治にうちあけやうと、熱い高鳴りをおさへてでかけてくるのであつたが、賢治のあまりにも清潔な、そして、ある一定のところまでは近づけるが、それ以内にはいりこもうとしても、ふみいることのできないきびしさにぶつかると、自分のうちに、あやしく燃える炎が、白日にさらされた惡夢のやうに、あさましくしらじらしくさへ感じた。
照子は戀するもののするどさで、このごろの賢治の照子に對する態度のうちに、彼女をさけてゐるかげを感じた。
このごろの賢治は、照子がたづねていくと、妙にそらとぼけたり、必要以上にむづかしげな顏をしたり、用事ありげに」そはそはしたりした。
こんなとき、照子はなさけなかつた。女がひたむきにささげるなさけを、むげにしりぞける男ごころがうらめしく、にくくさへ思へて、歸るみちみちいくたびか涙したことだらう――。
しかし、賢治とても、うらめしげな熱い眼差しで歸つていく照子をみると、照子のひたむきななさけがいとほしくも思へるのだつたが、自分の生涯をかけた念願のためには、あらゆる煩悩にうち勝つて、より強い意志と力をやしなはなければならぬのであつたから、賢治は、ここが試練だとふみとどまつてゐた。
<『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』185p~>その土くさい人人のうちに、ときをり、華やかな色調をそへて、若い婦人がまじるやうになつた。
この婦人は、内山照子と云ふ近鄕の小學校に奉職してゐる女教師であつた。彼女は、賢治が、近在農村を指導講演にめぐり歩いてゐたとき、たまたま、賢治の講演を、自分の小學校の講堂できいたことが緣となつて、この丘の家へやつてくるやうになつた。
照子は容貌も近代的な明るさをもち、性格も積極的であつたので、自然、このむさくるしい男どものつどひである協會中での彼女の存在は、まばゆいぐらゐなものであつた。
照子は、丘の家にくるたびに、そのあたりを掃除したり、よごれものを洗濯したり、靴下の穴かがりをしたりして、まめまめしく働いていた。
「このごろは、うつくしい會員がきて、いろいろとかたづけてくれるから、おほいに助かるす。」
と、賢治は、柄になく小ざつぱりしたシヤツなどきこんで、若い會員たちをうらやましがらせたり、
「そのうちに、また、農民劇でもあるべ、そのときは、一つ、女のでる芝居をやつて、内山さんにでてもらうべ。」
と、かるく冗談をとばしたりしてゐたが、照子の賢治に對する尊敬の念は、次第に思慕のこころにかはつていつた。それは、丘の家をたづねるたびに、はげしい炎となつて、彼女の身をこがしていつた。
照子は、いままで、生き甲斐さへ感じてゐた自分の生活である小さな生徒たちとともにその日その日をすごすことすらが、けふこのごろではくるしくせつなく感じ、夜ごと、そのやるせない胸をかきいだいて、悶えることもしばしばであつた。
照子は、今日こそは、こころのうちのすべてを、賢治にうちあけやうと、熱い高鳴りをおさへてでかけてくるのであつたが、賢治のあまりにも清潔な、そして、ある一定のところまでは近づけるが、それ以内にはいりこもうとしても、ふみいることのできないきびしさにぶつかると、自分のうちに、あやしく燃える炎が、白日にさらされた惡夢のやうに、あさましくしらじらしくさへ感じた。
照子は戀するもののするどさで、このごろの賢治の照子に對する態度のうちに、彼女をさけてゐるかげを感じた。
このごろの賢治は、照子がたづねていくと、妙にそらとぼけたり、必要以上にむづかしげな顏をしたり、用事ありげに」そはそはしたりした。
こんなとき、照子はなさけなかつた。女がひたむきにささげるなさけを、むげにしりぞける男ごころがうらめしく、にくくさへ思へて、歸るみちみちいくたびか涙したことだらう――。
しかし、賢治とても、うらめしげな熱い眼差しで歸つていく照子をみると、照子のひたむきななさけがいとほしくも思へるのだつたが、自分の生涯をかけた念願のためには、あらゆる煩悩にうち勝つて、より強い意志と力をやしなはなければならぬのであつたから、賢治は、ここが試練だとふみとどまつてゐた。
ちなみに、186pから87pは以下のようなものである。
<『傳記小説 雨ニモマケズ 宮澤賢治の生涯』(斑目榮二著、富文館、昭和18年11月20日)>
直ぐに判るように、もちろんこの「内山照子」とは、はたして高瀬露がこのような人物であり、このような行為を実際にしたのかはさておき、巷間言われている「高瀬露」である。そして読んでみて、ああまたもやここにも誰かと同様な創作の臭いがぷんぷんすると思った。しかも、同書の奥付は
となっていることから、これが昭和18年の11月の時点で発行されていたことが判るので、まことに奇妙な話だ。賢治が亡くなって10年経ったばかりだというのに、少なくとも賢治とはある一定期間とてもよい関係にあり、しかも賢治がいろいろとお世話になっている一人の女性を貶め、延いては賢治をも貶めることになる虞もあるこのような行為が、この時点で為されていたとは。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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