みちのくの山野草

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熱退ケバ病ヲ報ズルナク帰郷

2014-07-15 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『兄妹像手帳』154pの意味すること
 さて以前にも少し引用したが、『兄妹像手帳』には昭和6年の上京に関する記述がいくつかあり、その154pには以下のようなことが書かれている。
【『兄妹像手帳』の154p】

廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク帰郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
  走セテ帰郷
  次生ノ計画ヲ
  ナス。

     病廿八日迄ニ
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)293pより> 
 したがってこの手帳からは、「廿八日迄ニ熱退ケバ/病ヲ報ズルナク帰郷」とあるので、賢治は9月28日迄にその熱が引いたならば花巻に帰るつもりでいたということがわかる。ということは、体調が戻ったとしても東京に残って壁材料等の宣伝営業をもはややるつもりはなかったということになる。これは奇妙なことである。もちろんこの時の上京の目的は壁材料等の宣伝営業のためだと巷間言われているが、28日迄に熱が引いたならばその時点で即帰郷すると賢治は決意していたということになるし、実際帰花したのが28日だから、賢治がこの上京の際に行うことができた壁材料等の宣伝営業活動は発熱状況から判断して、午後に着京した20日とせいぜいその翌日21日だけであろう。
 しかもこのメモからは、熱が退かなくても滞京費が得られなければ、花巻に帰って「次生ノ計画ヲ/ナス」と決めていたということもまた言えるが、「次生ノ計画」という表現からは、帰花後に「東北砕石工場技師」を続けるという考えはもはやなかったのではなかろうかということも十分にあり得たことがわかる。
 ということは、そもそも賢治は9月19日の出京時から微熱があったのにもかかわらずそれを強行したことにも鑑みれば、この上京の最大の目的は壁材料等の宣伝営業のためだったということは極めて説得力に乏しく、もっと別の大きな目的があったのではなかろうか、と言わざるを得ない。ではこの時の最大の目的は何かとなれば、当初は荒唐無稽かなと思っていた<賢治三回目の「家出」>の方が、巷間言われている目的よりかなり説得力があると私には思えてきた。この『兄妹像手帳』154pの意味するところは極めて重大である。

 こうなると、羅須地人協会の活動を始めてから約7ヶ月後の「逃避行」ともいわれる昭和3年6月の上京と、この昭和6年9月の上京とはその構図が酷似しているということに気付く。賢治はどうも物事を長続きできないという性向があり、熱しやすいがその分逆に冷めやすく、いともたやすく物事を諦める傾向がある。その典型が農繁期に行ってしまった昭和3年6月の「伊豆大島行」を含む滞京であった。そして今回もまた、東北砕石工場の嘱託となって約7ヶ月経った昭和6年9月、賢治はまたぞろそこから逃げ出したくなったのではなかろうかと考えたくなる。そしてそれが、まさしくこの<賢治三回目の「家出」>であり、このような見方は荒唐無稽であるとは言い切れないということを私は確信した。

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