みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

検証もせず、裏付けもないままに

2018-11-12 10:00:00 | 蟷螂の斧ではありますが
《自分から仰向けになった「褐色のカマキリ》(平成30年11月2日撮影、イギリス海岸)

鈴木
 次、HJ氏は次のような断定もしている。
 「羅須地人協会」を設立して、農村指導の実践活動を始め、農民への奉仕と献身にあけくれた生活の過労から発病したのが昭和三年秋でした。(17p)
 しかし、これらの裏付けは取ったのだろうか。また典拠は何であろうか。
荒木
 まずは、「農民への奉仕と献身にあけくれた」についてだが、一般に賢治はそうしたというのは定説だろう。あっ、でもな、下根子桜に移り住んで「羅須地人協会」を設立した年、大正15年は稗貫も含めて、特に隣の紫波郡はとりわけ大旱害で飢饉一歩手前だったので、地元はもちろんのこと宮城県や東京からも陸続として救援の手が差し延べられた、と前に鈴木が言っていたよな……
鈴木
 そうだよ、赤石村を慰問したあの山形出身の松田甚次郎だってその一人だ。
荒木
 ならば、「農民への奉仕と献身にあけくれた」という賢治ならば当然真っ先に救援に駆けつけていたはずだ。
鈴木
 ところが、賢治がその時に救援活動をしたという証言もそれを裏付ける資料も何一つない。したがって、賢治はこの時救援活動はしなかったという蓋然性が高い。
吉田
 逆に、しなかったことを傍証する証言等であればそれらはある。それを、しつこく掘り下げたのが鈴木であり、例の本『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の〝第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い〟の中の、
で実証的に論じている。
鈴木
 おいおい、「しつこく」はないだろ。でも、拙著を認めてくれてありがとう。
 しかしやはり不思議なんだよな。どうして賢治研究家の誰一人としてこの時の紫波郡の大旱害と賢治のことを論じていないないのか、ということがさ。
荒木
 もし賢治が「農民への奉仕と献身にあけくれた」ということであれば、こんな時には真っ先に救援に行くはずだがな。ところが限りなく、実は賢治は何一つ救援活動をしていなかったということになりそうなので、これは賢治像にとって不都合な真実だから言及しないという賢治学界の暗黙のルールがあるんじゃないのか。
鈴木
 ルールはないとは思うが、現象としてならあると言えるかな。
 それから、昭和3年の場合には、賢治は農繁期である6月にもかかわらず上京・滞京していてしばし故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたことを裏付ける資料等もある。
吉田
 それからこの時の滞京に関しては、鈴木がWeb上で公開している著作『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』の中の、「昭和3年農繁期6月の滞京」等で指摘しているところだが、
 それからもう一つ、「大島行」の目的を終えた後に、なぜ「MEMO FLORA手帳」に手間暇かけてのスケッチ等をしていたのだろうか。土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によれば、賢治は帝国図書館に通い、総ページ数110頁の同手帳のうちの39頁分に、『BRITISHU FLORAL DECORATION』から原文抜粋筆写及び写真のスケッチをしていたという。賢治はなぜ「目的」をなし終えたというのに、火急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等をしていたのだろうか。
ということにも注意が必要だ。
荒木
 そっか、この頃の賢治のこれらの営為も「農民への奉仕と献身にあけくれた」とは言い難い、ということを示唆しているということか。そういえば鈴木が先頃投稿した、〝「本統の百姓になる」の「百姓」とは?(園芸)〟で、
 賢治は「大島行」という目的をなし終えたというのにすぐには帰花せずに、その後も暫し滞京して火急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等をしていたということになる。
と言ってたが、これのことだったのだな。
鈴木
 うん、実はそう。
 さて、これで半分は済んだのだが、まだ残りの半分「生活の過労から発病したのが昭和三年秋」が残っている。

荒木
 知っちょる知っちょる。定説ではそうなってるが、発病して実家に戻ったというのは方便であり、実はそうではなくて鈴木が繰り返し繰り返し主張し続けているあの仮説がその真相だったというやつだべ。
吉田
 でもその仮説に対しては、今までのところ何一つ反例が突きつけられていないから、反例が見つからない限りはそれは「真実」だ。
 そもそも、世の中は殆ど全てが仮説だ。ちなみに、竹内薫氏が、
科学だけではなく、私たちをとりまく世界も、実は仮説に満ちあふれています。親から教わることも、教科書に載っていることも、だれもが当たり前だと思っている常識や習慣や定説も、ぜんぶがぜんぶ、ただの仮説にすぎないのです。そして、仮説であるからこそ、くつがえすこともかのうなのです――――。
           〈『99.9%は仮説』(竹内薫著、光文社新書)の目次〉
と述べているように。
荒木
 そして、仮説を「くつがえすこと」ができるための武器が「反例」であり、この場合の仮説「農民への奉仕と献身にあけくれた生活の過労から発病したのが昭和三年秋でした」には「反例」があるというわけだな。
鈴木 
 単独で反例となるものはないが、それにほぼ近いのが賢治が澤里武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡(243)、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
            <『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15p >
であり、端的に言えばこの中の「演習」がそれに当たる。
 詳しくは、例えば、さっき吉田が褒めてくれた拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の〝第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相〟に述べてある。
荒木
 俺も最近やっとわかってきたよ。お前のその本を読んでな。
 そこで結論を言えば、「農民への奉仕と献身にあけくれた生活の過労から発病し」たので昭和3年8月に賢治は実家に戻ったというわけではなくて、お前のあの仮説、
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。
がその真実だった、ということだろう。
 ちなみに鈴木のこの仮説に対しては今まで反例が突きつけられていないから、この仮説は今後反例がる突きつけられない限り、という限定付きの「真実」だ、となるってことだべ。
吉田
 言い換えれば、HJ氏の
 「羅須地人協会」を設立して、農村指導の実践活動を始め、農民への奉仕と献身にあけくれた生活の過労から発病したのが昭和三年秋でした。(17p)
という断定は、検証されてもいなければ、裏付けさえも取っていなかったというものであり、この「断定」は本来はあり得ないもののはずだ。
 だから、もしも賢治研究学界で、重大な事柄が、検証もなされず、裏付けもないままに跳梁跋扈しているというのであれば、末恐ろしいということだ。ちなみに、先の竹内氏は前掲書でこう誡めている。
 仮説でしかない世界を確定したものとみなすのは、単なるごまかしにすぎません。それは精神の「死」を意味するといっても過言でありません。
             〈『99.9%は仮説』(竹内薫著、光文社新書)236p〉
と。
鈴木
 そうか、石井洋二郎氏があの式辞で警鐘を鳴らしていたことと同じようなことを竹内氏も危惧していたか。精神の「死」、なるほどな。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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