みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

同義反復の繰り返し

2018-11-13 10:00:00 | 蟷螂の斧ではありますが
《自分から仰向けになった「褐色のカマキリ》(平成30年11月2日撮影、イギリス海岸)

鈴木
 では今度は、途中をかなり飛ばして63pだ。HJ氏はそこでは、
 教師から農民への生活転換については、いろいろな理由が考えられます。…(投稿者略)…なによりも、自分が職業教師のマンネリズムにおちいることを警戒していたようですが、根本にあったのは利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていたからです。このことは、この年の春に書かれた「農民藝術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という信条からも知られましょう。(63p)
という断定をしている。
荒木
 なるほど、「根本にあったのは利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていたからです」という断定をな。
鈴木
 この「利他」については、先に〝賢治を「菩薩」とまつりあげているのは誰?〟で一度考察しているから割愛。ただし、同氏はここでもまた「利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感」というように、またもや賢治と「菩薩」を結びつけていることをチェック。
荒木
 そうだよな、「だが私はみだりに賢治を菩薩にまつりあげることはしたくないと思っています」と先に断ってこの著作はスタートしたというのに、またもやここでもまつりあげているからな。
鈴木
 さて次に、同氏は、「教師から農民への生活転換については……根本にあったのは利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていたからです」と断定しているわけだが、少なくとも賢治が花巻農学校を辞める時点で、「利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていた」ということなどは軽々しくは私には言えない。
荒木
 それはなぜだ?
鈴木
 それは、私はこの10年ほどをかけて「羅須地人協会時代」について実証的に考察してきたのだが、花巻農学校を辞めて下根子桜に移り住んだ際の理由が、「利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていたからです」と断定できるだけの証言や資料を、私は何一つ見つけられないからだ。 
 だからもしかすると、「利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていた」は、賢治がそうだったわけではなくて、後の賢治研究家が「後付け」した理由ではなかろうかと私などはつい想像してしまう。
荒木
 さあ、一体全体、HJ氏何を根拠としてこのように断定できたのでしょうか。 
吉田
 それじゃそのことを探るために、ここまでに取り上げてきた「断定」のリストを作ってみようよ。
鈴木
 わかった。ここままで考察の対象にしてきた「断定」のリストはこうだ。
① (賢治は)熱烈な農村指導実践家でもあり(8p~)
② 「法を先とし……農村を最後の目標」とする生活信条こそ、賢治の生涯を貫くものであって、「雨ニモマケズ」は、こうした態度と思想をもっとも円熟した形で示したものにほかなりません。(12p)
③ 賢治にとって「四衆」とはもろもろの苦悩を身に負った農民たちであり、彼らの幸福のために「デクノボー」と呼ばれるような献身的な生き方をしたいというのが、賢治の誓願であったのです。(14p)
④ 「羅須地人協会」を設立して、農村指導の実践活動を始め、農民への奉仕と献身にあけくれた生活の過労から発病したのが昭和三年秋でした。(17p)
⑤ 教師から農民へ生活転換した理由として根本にあったのは、利他の菩薩道に生きたいという自覚と使命感に衝き動かされていたことです。(63p)
というようになる。ただし、最後の⑤については、もとの文章をちょっと変えてわかりやすく修正した、いやつもりのものだ。
荒木 すると、そろそろ明らかになってきたことは、
    この本の著者HJ氏は、断定できる理由や根拠を明示せぬままに、あちこちで断定表現をしている。
ということだべ。
吉田
 そして、断定表現はしているものの、そう「断定」できるためのそれぞれの理由や根拠が一切書かれていないし、まして裏付けを取ったり、検証したりしたものでもない。
荒木
 それにしても、なぜ著名な研究者とあろう人が、安易とも思える単純な「断定」をあちこちでしているのだろうか。これじゃ、論が深まってゆかないだろうに。
吉田
 もしかすると、断定表現することによって、ご自分の主張やその論理に曖昧さがないことを強調したいのかもしれない。が、そんなことでは逆に、説得力が減殺されるだけだ。
荒木
 だからHJ氏の論は説得力に欠けているのか。
吉田
 もちろん同氏はご自身ではよくお解りになっておられるのだろうが、僕から言わせてもらえば、あちこちで同義反復が繰り返しているようなものだ。
 言い換えれば、あちこちで「断定表現」をしてはいるものの、その根拠も理由も述べずし、はたまた説明を丁寧にしているわけでもないから、これでは読者が読み進めていってもなかなかその解釈は深まってはいかないということは当然の帰結だ。
荒木
 そっか、いくら「断定表現」を繰り返したって所詮それは「表現」にすぎず、「断定」たり得ないってことな。
吉田
 三度繰り返すが、同氏は一度通り過ぎた道を振り返りながら論じているのでそこが災いして説明不十分となり、他人にはとんとわかりにくい書き方をしている。しかし、僕等にとっては初めて通る道だ。だから同氏は読者に解ってもらいたければ、僕等の気持ちも忖度して書いていただきたかった。
 しかしその一方で、僕は危惧している。もしかすると、賢治研究者が自分の想いを賢治に託し続けていることによって、その想いがいつのまにか「事実」だという錯覚に陥っているということはないですか、ということを。いやいや、そんなことは万に一つもあってほしくないから、それこそこれは僕の錯覚であってほしいのだが。
荒木
 鰯の頭も信心から、っていう諺もあるしな。
鈴木
 それはちょっと意味が違う気もするし、彼らに対して失礼な謂いとなりそう。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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