本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(24p~27p)

2016-02-16 08:00:00 | 「不羈奔放だった賢治」
                   《不羈奔放だった賢治》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
 そしてもしこの判断が正しいとするならば、賢治は少なくとも後々この時の己を恥じて悔いることになるということもまた私からすればほぼ明らかだ。それは、常識的に考えてみれば、地元のみならず全国から陸続と救援の手が差し伸べられていたというのに、賢治はそのようなことを何一つ為さなかったどころか、無関心でいたということになるからだ。

 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」
さて、私は先ほど端から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」を用いたが、このことについてここで一度確認しておきたい。
 †「ヒデリでも不作あり」という事実
 いわゆる『雨ニモマケズ手帳』に書かれている「雨ニモマケズ」の全文は以下のとおりである。
 11.3     
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  行ッテ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
    <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)>
 さて、このことに関してある人は、「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるから「ヒデリ」は農民にとっては歓迎すべきことなので「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たりすることはないという論理によって、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と訂正するのはおかしいと主張する。しかしながら、こうして大正15年の紫波郡等の大干魃による惨憺たる凶作を新聞報道で知ってしまうと、「ヒデリでも不作あり」という事実があったということになるから、この言い伝えはいつでもどこででも成り立つわけではないということはもはや明らか。よって私はこの論理にくみすることはできない。
 †「ヒドリ」は南部藩の公用語ではない 
 次に、この「雨ニモマケズ」を冷静に読み返してみれば、「ヒドリ」の部分以外は全ていわゆる「標準語」であることは直ぐわかる。となれば、常識的に考えて「ヒドリ」だけが「標準語」ではなくて「方言」だとするわけにはいかないだろうから、「ヒドリ」もやはり「標準語」であると判断せざるを得ない。
 ところが、『広辞苑 第二版』(新村出編、岩波書店)の「ひどり」の項には、
ひどり【日取】或ることを行う日をとりきめること。また、その期日。
しかなく、この【日取】では〔雨ニモマケズ〕において意味をなさないから、この「ヒドリ」は「標準語」としては存在しないことになるのでこれは賢治の誤記であることになろう。
 そこで、対句表現
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
に注意すれば、
  ×「ヒドリ」→〇「ヒデリ」
という判断は極めて合理的である。
 これに対して、「標準語」ではないがそれに準ずる「公用語」としての「ヒドリ」ならばあるといって、和田文雄氏は
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。
という主旨のことを『宮澤賢治のヒドリ』(コールサック社)の中で述べている。「ヒドリ」が南部藩の「公用語」であれば標準語からなる〔雨ニモマケズ〕の中でそれが使われてもおかしくないというのが和田氏の論理のようだ。
 ところが、肝心の、それが南部藩の「公用語」であるとことを裏付けているといって和田氏が前掲書で「引用して転載」している『南部藩百姓一揆の研究』の中の「南部藩の「日用取」の指令」という資料だが、実際に原典『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著、法政大学出版局)で確認してみたところそこにはそのようなことは記されてはいない。
 ちなみに、和田氏が「引用して転載」したと言っている「南部藩の「日用取」の指令」については、
   南部藩の「日用取(ヒドリ)」の指令
 一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ヵ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲
【和田氏の当該ページ(一部抜粋)】

【森氏の当該ページ(一部抜粋)】
事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月
      (森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の研究』から)
<『宮沢澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)71p >
となっているが、出典である森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』の当該ページは次のような中身であり、
  第三節 延享元年黒沢尻・鬼柳通新田開発反対一揆
 一 新田開発の奨励
財政政策の一環として行われた新田開発は、享保・寛保の検知の結果予想以上の成績をあげたので、さらに計画を拡大し、黒沢尻通では享保三年十月から新田開発のために和賀川をせきとめて、新堰を掘り、畑返し新田を起こすととし、その人夫として、郷中から一人一日十文の賃金で徴発し、開発に当った。しかし、それはあまりにも低賃銀であり、人夫に出る百姓がない。やむなく賃銀を四十五文に引き上げ、半ば強制的に高割りに徴用をかけた。しかし、当時農村の賃銀は高騰を続け、遠く他領まで出稼ぎする者が増加していた。当局もこの現象に気がつき、「二郡中身売払底在々之者共下人召抱殊之外差支候由」につき二郡代官に命じて、他領に奉公に出ている者を召喚せしめたところが、安俵・高木通から男女百五十二人、二子・万丁目通から八人、鬼柳・黒沢尻通から百五人も出稼ぎしていた。当局は領内の労働力を確保するために、指令を出して、
一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ケ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月   
〈注:傍線  筆者〉
   <『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著作集第七巻、法政大学出版会)78p >
となっている。
 ということは、この上掲文章中の傍線〝  〟部が、和田氏が『宮沢賢治のヒドリ』で引用したと言っている部分に相当しているはずだ。すると直ぐ判るように、森氏の方になくて和田氏の方にあるのがタイトル「南部藩の「日用取」の指令」であり、さらにそのフリガナ「ヒドリ」であるから、和田氏は引用する際に、このタイトルとフリガナを自分で付け足したことになる。南部藩が出した指令は「領内の労働力を確保するために、指令」と森氏は述べているのにもかかわらず、である。だから私には、南部藩が出したこの指令が「南部藩の「日用取」の指令」とタイトルできるようなことまでは森氏が述べているとはどうしても思えない。もちろん、その指令の中に「日用取」という用語は見出せるが、その「日用取」に「ヒドリ」などというフリガナも付いていない。これでは和田氏は神聖なる資料を改竄してしまったという誹りを受けかねないので、私は和田氏のこのような主張を肯うわけにはいかない。
 よって、件の「ヒドリ」は南部藩の「公用語」と言い切れるわけでもなく、それが「日用取」と書かれていたということやそのフリガナが「ヒドリ」であったということを森氏が述べていたというわけでもないから、どうやら私は、今までもこれからも
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の書き間違いである。
と判断するのが極めて合理的であるとするしかないようだ。
 このことに関連しては、入沢康夫氏は論考「「ヒドリ」「ヒデリ」問題のその後」の中で次のように述べている。
 このなにやら詐術めく引用の仕方については、先にも触れた花巻の鈴木氏が、「みちのくの山野草」の二〇〇八年十一月三〇日付「和田文雄氏の『ヒドリ』」、同年十二月一日付「『南部藩百姓一揆の研究』の78p」、同年同月七日付「『日用取=ヒドリ』の新たな検証を」の三回を使い、森氏著書の該当部分の写影をも添えて、指摘しておられる。
<『賢治研究 121号』(宮沢賢治研究会、平成25年8月)4p >

 帰花後の賢治の無関心
 さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花(花巻に帰ること)。明けて昭和2年1月からはよく知られているように、次のようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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2 コメント

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ヒデリ (注文の多い料理店)
2016-02-16 18:48:29
 ヒデリかヒドリかという議論があることは、新聞(産経でしたが)にも載って存じ上げていましたが、その記事では”ヒドリ”説をとっていたようで、当時の社会情勢を考えるとそんなことも無いとは言えないとは思っていましたが、興味深く目を通させていただきました。南部さぁと伊達さぁの藩境周縁部というのが極私的に気にはなりますが、存じ上げている地名があまりにも出てくるもので、上野駅を描いた啄木のように”**の**なつかし停車場に…”の心境でここを訪れています。随分、お暇してきたなぁと反省しております。
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ありがとうございます (注文の多い料理店様)
2016-02-17 08:32:33
注文の多い料理店 様
 お早うございます。
 そして、ご訪問いただきましてありがとうございます。
 今朝、花巻の野面は一面うっすらと真白です。
 さて、仰せの通りで、私も可能性としては否定しておりません。あくまでも私の場合は蓋然性が高いか否かです。まして、資料を恣意的にお使いになるのは如何なものかと思っているだけです。
 ちなみに、私は今花巻に住んでおりますが、出身は伊達藩で、藩境の近くの出身です。
 では、これからもどうぞよろしくご教示のほどお願いいたします。
                                    鈴木 守
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