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みちのくの山野草

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「小作料の適正化を求めて」

2021-01-11 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)〉

 それでは最後に、
 松田甚次郎が村人とともに「小作料適正化」運動を行った以下のような記録があり、これは松田の五冊目の著作『土の教へ』として公刊すべく、昭和十八年六月に脱稿し、出版社も決まっていたのだが、「幻の書」となってしまった。
という意味のことを安藤玉治が言っている 、その記録(抜粋)を以下に投稿してこの〝『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』のシリーズ〟をそろそろ終えることにしたい。

 適正小作料に関して
 本村の田地は決して良好にあらず、又小作料は高く、一日も速やかにこれを適正化して、小作農民の生産増強をはからねばならなかった。また地主小作人間に介在する支配人世話人の不労中間所得の新体制としてもこれをぜひ断行せねばならぬと、私は昭和十五年の春から思いたったけれどもいまだにその機を得なかったが、昨十七年正月、村塾で村民有志懇談会の席上に於いて一寸その問題にふれた。しかしそのときは学校問題が緊急を要することだったので一般の熱意は高まらなかった。昭和十七年九月二十一日は恩師宮沢賢治の十周忌であったのだが幸い公休日であったので七〇名以上塾に集まった村人に私は賢治が「本当に農村をきづき農業をなすものは小作人だ」といったことを説き、小作統制令に基く適正小作料を本村に速やかに実施すべく、懇談したのであった。その結果直ちに一〇名の委員をあげ、ここに農業報国推進準備会を首尾よく結成されたのであった。…投稿者略…
 数日後一人の委員が代表して役場に出向き村長さんに面会して小作人の意向であるから近く県小作官の適正小作料に関する講話会を開いて下さるように懇願した。ところが村長の返事が意外であった。小作料か(ママ)高ければ、印紙をはって小作調停に出せばいゝじゃないか、そういうことは小作人側からさわいで来なくともこちらで充分考えている、というのである。要するにてんで相手にされなかった。そこで私たちは陣容をたて直す必要があった。前記の委員では一部の代表としか認められない、各より委員を推挙せしめて委員会を開き、全委員中より請願委員をたてるべきであるということになった。それから六日目にようやく第一回の委員会のはこびとなり、各委員は塾の仏間に集まった。翌月野良着姿の一〇名の申請委員は、予定の如く集合して突如として村長を訪ねた。すっかりあわてた村長は助役に目くばせして委員を二階におしあげ、そこで応待した。しかし話は一向にとりとめのないものであった。…投稿者略…委員たちはすっかり失望して帰ってきた。私よりもはるかに年上の農民たちが子供のように黙々とうなだれる様は私の胸に熱いものを感じさせないではおかなかった。そこで私はこう言った。
「こんどは私の出番だ、私から小作法の話しをきけというならば、私よりも詳しく正確でかつ適任なる県小作官にお出を願うことにしよう。このことは警察も了解しているから」と。一同は俄に元気づき三三、五々帰っていった。
 方々へ連絡を取って一〇月一七日に開催する段取になった。当日は三〇〇人余りの村人が集まったが、たゞいかんなことに村長始め役場員が一人も顔を見せないことであった。小作官の熱ある講演と座談会の結果は、小作人たちが不安に思って居った事のすべてを氷解した。そして実施の方法としては直ちに農業報告会を、村長を会長として結成しなければならないということになった。…投稿者略…村長に陳情すべく一〇名をえらび、誓願にいったら、村長は又来たかという調子で迎えた。
「私共は一〇月一〇日に県小作官殿の話をきいた。そして一同は村内の有力者、地主、村会議員にお話しして一通りの了解を得たから、本村に於いても一日も早く農業報国会を結成していたゞきたい」と申し出たが村長は、農業報国会は結成するけれども今すぐというわけには、の一点ばりで三〇分以上の押問答をくり返したが村長の返事はそれから一歩も出なかった。
 やがて請願隊は自転車をとばして帰ってきた。興奮して経過をつげるのだったけれども結局は村長を動かすには村会議員を動員する以外にはない、とのことからその方向に動くことになった。委員たちの訪問をうけて議員たちも面くらったが選挙民の懇請をうけて行かぬわけにもならぬので、翌る日村長にあたってくれた。村長の態度は委員たちのそれとはうって変わって極めてやわらかく、何とかして本年中に農業報告会を結成したいと考えているが、適正小作料の方は色々と準備と調査を要するから本年中に適用は出来ない、との答であった。
             〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)202p~〉
 この記録はまだ続くのだが長くなるので、ひとまずこの辺りで区切りたい。
 さて、私は今まで、甚次郞がこれ程までに「小作料適正化」運動に取り組んだいたということを知らなかったから、新鮮だったし、やはり甚次郞と賢治は違っていたのだということを示唆されたような気もした。
 というのは、名須川溢男は「宮沢賢治の活動と歴史的背景」という論考の中で、
 賢治はすでに地域の農民や青年、労働者や労農党、社会主義者と交流学習したり、支援したり、活動していたのである。賢治は「地主小作関係」を見失ったとか「看過した」と言われているが、彼は彼なりに活動したのであった。
             <「宮沢賢治の活動と歴史的背景」(名須川溢男著、『賢治研究 20』(宮沢賢治研究会)47p)>
とか、
 重要なことは賢治の著作物に書かれていないから彼が社会運動や「地主小作関係」を知らなかったとか、やらなかった、目をつぶったなどと言っては真の賢治を理解していないということである。厳しい弾圧下にあって、真剣に生きようとする者がどのような行動をしたかは、歴史的背景から深く考えなければその限界状況を納得できないであろう。
             <同47p>
はたまた、
 賢治が労農党に関係している花巻の最重要人物であったことは官憲側が熟知していた。羅須地人協会と労農党稗和支部事務所は一体のものであった。賢治が農村をまわりあるき、農民の信望が誰よりも厚いことに恐れを抱いているのは他ならぬ官憲であった。よもや地主小作問題などを声高く呼ぶことはできまい。警察から訊問され調書を取られて協会の活動は禁止、弾圧されたのであった。
             <同47p~>
と述べているが、この程度の取り組みならば、この記録「適正小作料に関して」をここまで読んでみただけで、
    賢治の「地主小作問題」の取り組みは、少なくとも甚次郞のそれには遥かに及ばなかった。
ということがもはや明らかになったようだ。

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は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。




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