みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3540 当時冷害はなかった

2013-10-02 08:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
(承前)
賢治が生きていた頃の冷害や干害
 さてでは、賢治が生きていた頃(賢治は明治29年生まれ、昭和8年没)に冷害・干害等がどれくらい起こっていたのであろうか。資料を探してみると、明治19(1886)年~昭和30(1955)年については次表のようになるという。
   <表 賢治が生きていた頃の冷害・干害発生年>
      [冷害]               [干害]
    明治21(1888)年         明治42(1909)年
    明治22(1889)年         明治44(1911)年
    明治30(1897)年         大正 5(1916)年
    明治35(1902)年(39)       大正13(1924)年
    明治38(1905)年(34)       大正15(1926)年
    明治39(1906)年         昭和 3(1928)年
    大正 2(1913)年(66)       昭和 4(1929)年
    昭和 6(1931)年          昭和 7(1932)年
    昭和 9(1934)年(44)       昭和 8(1933)年
    昭和10(1935)年(78)       昭和11(1936)年
     注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。

              <『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)より>
 このデータからは、干害のあった年で作況指数が80を割った年はないことがすぐ判る。上表右側の列では〝( )〟書きがないからである。一方、作況指数が80を割った年は、明治38年の最悪34を含め明治35年、大正2年、昭和9年、昭和10年の何れも冷害の年だけである。
 もちろん、冷害の場合には灌漑用水の確保が出来る出来ないに拘わらずいずれの水田でも不作となる。一方灌漑水用が確保できるような水田はその当時でも当然少なからずあり、そのような水田ならば却ってヒデリ(日照り)の方が水稲の発育にとっては好ましい。この点が冷害と旱害(干害)の構造的違いであり、上の<表>で作況指数が80未満であった年が干害の年にはなくて、いずれも冷害の年であったのはこのことに依ると言えるだろう。
当時花巻周辺で冷害はなかった
 さて、これまでに掲げたきた資料を付き合わせてみると、やはり宮本硬一博士の指摘するとおり
 大正2年の大きな冷害のあと、昭和5年までの16年間は、東北地方の何処でも冷害は起きていなかった。イネの豊作期に当たっている。
と結論してよさそうだ。ということは当然
 大正2年の大きな冷害のあと、昭和5年までの16年間は、稗貫の何処でも冷害は起きていなかった
となる。なぜならば、稗貫は岩手の、岩手は東北の一部だからである。
 よって、
・賢治盛岡中学卒業(大正3年)~下根子桜撤退までの間に花巻やその周辺で冷害だった年は一度もなく、逆に旱害は幾度かあり、とりわけ大正15年の旱害は悲惨だった。
・賢治が盛岡中学卒業後に初めて経験した冷害は昭和6年のことであった。
ということなる。
 するとおのずから、
 少なくとも「羅須地人協会時代」の賢治が、「サムサノナツハオロオロアルキ」ということは、気象上からも稲の作柄上からもあり得なかった。
ということになろう。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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