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昭和三年の賢治の稲作指導

2024-01-15 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》












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『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次(改訂版)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 昭和三年の賢治の稲作指導
 さて、客観的には昭和3年の「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たりすることは賢治に必要がなかったと言えそうだということがこれでわかったのだが、稲作指導者という立場からは賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはもちろんあり得るので、次はそのことを考察してみたい。
 この昭和3年の「ヒデリノトキ」には、賢治は、2年前の大正15年の赤石村等を始めとする紫波郡内等の「ヒデリ」による大旱魃被害があったので、田植時の「ヒデリ」を今度はとても心配していたと推測できる。それは15年の大干魃の際に賢治は何一つ救援活動をしていなかったからその悔いがあったであろうことと、その大干魃害被害の最大の原因は田植時に用水を確保できず、全く雨も降らなかったからである。
 ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、この推測に反して周知のように、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
ということである。
 よってこの年譜に従うと、この時期に「ヒデリ」に関して、
 大正15年の時とは違って今年はちゃんと田植はできるのだろうか。
とか、
 田植はしたものの雨が今年は降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。
 それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったであろうか。同じく『新校本年譜』によれば、
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(筆者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(筆者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
とある。
 そこで私は、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていた賢治はその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに
   〔澱った光の澱の底〕
   澱った光の澱の底
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
…(筆者略)…
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~>
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、今までの私は、帰花後の賢治はさぞや稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得していた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。
 そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」という表現や「やっと」というそれからも、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったであろうことが言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。この表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治ぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。
 しかも7月3日付書簡(239)に、
約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためているから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうで、「しばらくぼんやりして居りました」ことがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、賢治が
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
        …(筆者略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと考えただけでも賢治にとってそれはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 そこでそのことを次に検証してみる。まずはそのために、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→ 4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→8㎞→好地
→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
  全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻りきれるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
賢治にとっては、この詩に詠んだような行程を一日で廻りきるのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することはまずできなかったということである。
 また前掲の、
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるように堀籠に依頼。検鏡の結果イモチ病とわかる。
についてだが、なぜ賢治は最初「イモチ病」ではなくて「ゴマハガレ病」だと思ったかということを推測してみれば、先に掲げた《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》(47p参照)の一覧表に基づけば、昭和3年のこの時期は雨も殆ど降っていないから、賢治は「イモチ病」ではないと思ったのだろう。それは、「イモチ病」が蔓延する必要条件に「多湿」があるのだが、3年7月はそのような気象条件になかったからである。
 また、上掲年譜の最後の
   七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した〔推定〕
という推定はあまり妥当なものではなかろう。というのは、「七月の大暑」とは7月23日頃のことだから、先の天気一覧表から昭和3年7月下旬は雨も殆ど降っておらず、先ほどと同じ理由が成り立つからである。つまり、仮に窒素施肥過多によって稲熱病が発生した田圃はあったとしても、蔓延の必要条件「多湿」を満たさないから、それが蔓延することは少なくともなかったはずだ。もちろん、蔓延しなければ当然「非常に稲熱病が発生した」はずもない。実際、この年に花巻で稲熱病が蔓延したという新聞報道等も見つけ出せなかった。
 では次に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったようだ。
 その一方で、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月には皆、
 氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し……⑤
というようなことが書かれているが、一般にも知られていることだし、先に掲げた《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》(51p参照)によっても、同年の夏は日照りがしばらく続いたことが明らかだから、「風雨の中を徹宵東奔西走」できるような風雨の日はまずなかったということになる。
 つまり、〝⑤〟はどうも事実であったとは言い難く、このような稲作指導をこの時に賢治が為したということが確かであったという保証はないことになる。
 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るということでここまで考察してきた。ところが、たしかにこの年の夏は「ヒデリ」が40日以上も続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にもかかわらず上京・滞京していてしばし故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからは、
 稲作指導者という立場から賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たりすることは、どうやら客観的には必然性がない。
と判断する方がより妥当と言えよう。ましてこの年の「ヒデリ」は、「ヒデリに不作なし」というタイプの好ましい方のそれであって、2年前の大正15年の飢饉寸前と言えるような、紫波郡の赤石村を始めとする甚大な旱害を引き起こしたようなタイプの「ヒデリ」では全くなかったからでもある。
 となれば、この年に賢治が仮に「ナミダ」をもし流したとすればそれは「稲作指導者という立場」からではなく、主観的なものとなろう。つまり、賢治自身の稲作指導が不十分であったことのふがいなさに対してということはもちろんあり得る。しかし、それではその「ナミダ」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまう。それは農民のためのではなく己に対しての「ナミダ」となるからだ。そしてそもそも、昭和3年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は少なくとも平年作以上であったと判断しても構わないであろうことは先に示したとおりだから、結局、
 昭和3年の夏、賢治が稲作指導者としての立場からも「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たことはなかった。
とならざるを得ないだろう。
 したがってここまでの検証の結果、
 「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」。
というのが現時点での私の結論である。
 そしてもしそうであったとしたならば、後々、とりわけ大正15年の未曾有の大旱害罹災の際に何一つ具体的な救援活動をしなかったことに対して賢治は後悔せねばならなかっただろう。おそらく、賢治は良き稲作指導者でもあると自負していたつもりであったのだが、肝心の時に困っている貧しい農民を手助けできるような稲作指導をしてこなかったし、それ以前に人間として、わけても15年の大干害に際して何一つ救援活動もしなかったどころか、結果的には「無関心」だった自分がいたということに後になってやっと気付いて愕然とし、忸怩たる思いで悔い続けていたのではなかろうか。
 どうやらこの辺りの賢治のもどかしさが、私が〝ずっともやもやしていた〟一つの大きな理由だったようだということがここまで検証してきた結果わかりつつある。私がかつて持っていた賢治のイメージ(それは多くの方々が持っているそれでもあろうと思われる)からは、とりわけ大正15年の隣の紫波郡内の大干魃の際などは、その惨状を知ったならば何はさておき、いの一番にその救援に駆けつけたであろうというのが賢治のイメージだったのだが、実は「羅須地人協会時代」の賢治はどうやらそうではなかったということにならざるを得ないようだ。しかも、客観的には賢治はその時「無関心」だったと言われても仕方がないということが私にはとても辛いし、賢治本人はなおさら後々そうであったであろうことにも気付く。
 そして、この時の大干魃被害に際して賢治が「涙ヲ流サナカッタ」ことへの悔いはその後の賢治の心の澱となって消え去ることはなく、そしてそのことが、例えばあの書簡(258)中の「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので」に繋がっていったのではなかろうか…。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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