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昭和三年の「ヒデリ」

2024-01-14 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》












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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 昭和三年の「ヒデリ」
 さて、先の考察結果(33p参照)において述べたことだが、
 大正15年の「ヒデリ」による大干魃被害の際に賢治は一切救援活動をしなかった。
ということをもはや私は否定できなくなってしまったから、
 大正15年の賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」
ということをほぼ認めざるを得なくなった。
 では「羅須地人協会時代」全体を通じてはどうであったのだろうか。この時代に「ヒデリ」だったのは大正15年だけでなく、よく知られているように昭和3年の夏もそうであり、花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。したがって、この年の夏であれば賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」ていた可能性がある。
 例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』のには次のような記事、
 四十日以上打ち續く日照りに
    陸稻始め野菜類全滅!!
      大根などは全然發芽しない
        悲慘な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帯の地方の陸稲は生育殆と停止の状態にあり両三日中に雨を見なければ陸稲作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
が載っているし
 また、昭和3年の『阿部晁の家政日誌』にも、
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ
 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ
 稲作モ畑作モ大弱リ
という記述がそれぞれあり、しかも、『宮野目小史』には、昭和3年の花巻の宮野目地区の天候の記録があり、
   昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20p >
ということだから、7月半ば頃から40日以上もの間花巻一帯では「ヒデリ」が続いたことはまず間違い。
 となれば、
 昭和3年の夏はものすごい「ヒデリ」の日々が続いていたから、賢治はこの年の「ヒデリノトキニハ涙ヲ流シ」ていた。
という可能性があり得る。
 また、この「ヒデリ」による被害は上段の新聞報道のとおりだろうし、
 盛岡だけでなく、花巻も同様に「陸稲始め野菜類全滅!!」であったであろうことはほぼ自明だ。
ということもまず間違いなかろう。
 一方で、時に云われる「二八年の天候不順による水稲の被害」についてだが、これが事実であったかどうかということになるとどうも危うい。
 というのは、次頁の《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表を見た限りではそのような天候不順があったとは思えず、水稲被害はまずなさそうだからである。それどころか逆に、「天候不順」というよりは水稲にはふさわしい良い天気が
          県の第一回予想収穫高
   稗貫郡 作付け反別 収穫予想高  前年比較
   水稲  6,326町  113,267石  2,130石
   陸稲   195町   1,117石 △1,169石
   合計  6,521町  114,384石  961石(0.8%)
だという。陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減であり、予想収穫高は前年の半分以下ということで激減している。がしかし、当時の稲作における稗貫郡の陸稲の作付け面積はほんの僅かにすぎない。具体的には、
   195÷6,521=0.03=3%
だから、同郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかるし、トータルすればその米の予想収穫高は前年の昭和2年よりも961石(0.8%)の増だ。
 しかも先に、
 稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、昭和2年の稲作は少なくとも平年作を上回っていた。
と判断した方がより事実に近かったと言えるだろうということがわかっている(43p参照)から、このことを踏まえれば、
 昭和3年の稗貫郡の米の作柄は昭和2年よりももっと良く、少なくとも平年作以上であった。
とほぼ言えるだろう。
 それからもう一つ、この年のこの時期に賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」と云われているようだが、この病気は「低温多湿」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病
にかかった水稲があったにしても、この年の夏の稗貫地方は雨の日が殆どなかったから「多湿」であったとは言えず、蔓延の条件が成立しないので昭和3年の稲熱病による不作ということは稗貫地方では普通は起こり得ないと推測できる。
 したがって、昭和3年10月3日時点では
 一九二八年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は平年作以上であった。……④
とほぼ言えそうだ。
 では実際にはどうであったのであろうか。そこで昭和3年の県米実収高を調べてみたならば、昭和4年1月23日付『岩手日報』に載っていて、県全体では
     「昭和3年岩手県米実収高」
  水稲の反当収量は1.988石で前年比3.6%増収
  陸稲の反当収量は0.984石  〃 13.7(?)%減収
  全体の反当収量は1.970石  〃  3.3%増収
とあった。さらには
 最近五ヶ年平均収穫高(平年作)に比するときは4.1%の増収
であったと報じている。そして、同記事の中には岩手県の天気の概況などについて、
 …七月中旬に及び天候一時囘復し氣温漸次上昂して生育著しく促進し、分けつ數も相當多きを加へたり、然るに七月下旬に至り気温再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し結實(?)合に完全に行はれ豫想以上の収穫を見又陸稻は生育期に於いて縣下各地に旱害をこほむり、作況一般に不良にして作附段別の增加に反し前述の如き著しき減収を見るに至つた、今郡市別に米實収成績を示せば左の如し
岩手県米実収穫高
前五ヶ年平均 一、〇五二、九四〇石
昭和二年   一、〇六一、五七八石
大正十五年     九四七、四七二石
ということも報じられていた。
 したがって、「縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し…豫想以上の収穫を見」とあることから、それが「豫想せられたものの」、実際昭和3年に、「縣南」に位置する花巻で稲熱病が蔓延したということはないということがはっきりしたから、前頁の「推測」が裏付けられた。
 ただし残念なことに、『岩手日報』は「郡市別に米實収成績を示せば左の如し」と述べていながら、実はその記載がないから稗貫郡の詳細はわからなかった。とはいえ前述したように、昭和3年10月3日付『岩手日報』の新聞報道によれば、
昭和3年の稗貫郡の米の予想収穫高は前年比〝961石増〟
であったのだが、明けて昭和4年1月23日付『岩手日報』によれば何と、
 県全体での実収高は〝34,836石増〟という大幅増収であった。
ということだから、稗貫郡以外がとてつもなく予想収穫高よりも増えたということは考えられない。まず間違いなく稗貫郡も予想より増えたであろうし、百歩譲っても、少なくとも作柄は前頁〝④〟を下回ることはないと判断できる(〈注十三〉)から、
 一九二八年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は平年作以上であった。
と今度は断定しても構わないだろう。
 したがって、前述したような
 天候不順による農作物の被害が賢治に自分の力の限界を感じさせた
とか、この時に賢治は
 イモチ病になった稲の対策に走りまわり
というようなことは、昭和3年の場合どうも事実であったとは言い難いようだ。
 なぜならば、前掲の《図1 花巻の稲作期間気温》《図2 花巻の稲作期間雨量》や《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表を基に昭和3年を概観すれば、田植の時期には3年間の中で最も雨量が多く、夏は「ヒデリ」だったし、その上8月~9月は雨量が最も少なかったのだから、少なくとも水稲の場合には「天候不順」どころか逆に、稲熱病蔓延の心配もなく、水稲にとってはとてもふさわしい年であったと言えるからである。だから、「イモチ病になった稲の対策のために走りまわ」ることは普通考えられない。
 もちろん、この年は「ヒデリ」による陸稲や野菜の被害はあったのだろうが、当時稗貫地方の稲作に占める陸稲の割合は以前述べた(52p参照)ように3%程だし、稲作全体としては平年作以上であったと前頁で判断できたのだから悪いとは言えず良い方だ。しかも、『日本作物氣象の硏究』(大後美保著、朝倉書店、579p)によれば、岩手の陸稲の反当収量は昭和2年1.33石、同3年0.98石、同4年0.29石ということだから、昭和3年の陸稲が極端に悪いわけでもなかった。したがって、稗貫地方の農民たちが「農作物の被害」で自分の力の限界を感ずることはほぼあり得ず、おのずから、「天候不順による農作物の被害が賢治に自分の力の限界を感じさせた」ということも考えにくい。
 どうやら、
 客観的には、賢治は昭和3年のお米の出来を心配して、「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たりすることなどはなかった。
ということになりそうだ。

〈注十三:本文53p〉県全体の概況としての、昭和3年の「七月下旬に至り気温再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く」は稲作にとってはたしかに好ましくないものだが、翻って花巻はどうだったかというと、前掲の《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》《図1 花巻の稲作期間気温》《図2 花巻の稲作期間雨量》や《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧から判断できるように、「七月下旬に至り気温再び低下し」とは言えそうにないし、「二百十日以後の天候は稍降雨量多く」についてもやはりそうとは言えそうにもない。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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