みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第三章 昭和4年の場合(テキスト形式)

2024-03-16 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
第三章 昭和4年の場合
 昭和4年露宛書簡下書「新発見」?
 ではここからは、昭和4年に関わることについてである。
◇<仮説:高瀬露は聖女だった>の定立
鈴木 それでは、これで羅須地人協会時代の検証等は全て済んでしまったから残るはこの時代以降についてであり、今後は昭和4年~昭和7年について調べればよい。
 では、まずは「昭和4年」分について考察してみよう。なお、ここからは今までの考察で明らかになったように、露は<悪女>と言うよりは、<聖女>と言った方が遙かにふさわしことがわかったから、ここからは正式に
   <仮説:高瀬露は聖女だった>
を立て、その検証を行うという「仮説・検証型研究」にしたいのだがどうだろうか。……そうか、その方が文学研究らしくていいというわけだな。よしそれじゃ早速その検証作業を始めることにしようか。
◇新発見とはいうものの
吉田 まずこの年に問題となるのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとして『校本全集第十四巻』において公にされた「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」だ。
荒木 ではまず、その「新発見」の経緯を知りたいな。
鈴木 それが私はとても理解に苦しむのだが、『同第十四巻』の28pに唐突に「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べているのだが、私が探した限りでは同巻のどこにもその「新発見」の詳しい経緯は書かれていないのだ。そして一方では、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と同34pにあるが、その根拠も理由も何ら明示されていないから全く判然としていない。
吉田 しかも、「旧校本年譜」の担当者である堀尾は、
 そうなんです。年譜では出しにくい。今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
<『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)、177pより>
と境忠一との対談で語っている。
荒木 それは大問題だぞ。まさに、「死人に口なし」を利用したとしか言えねえべ。
鈴木 同巻では「新発見の書簡252c」と銘打っているが、そこに所収の「旧校本年譜」の担当者である堀尾は、「手紙が出ました」と言っているのか。「新発見」と「出ました」とでは意味がかなり違うだろうに。
吉田 まして、ここで「新発見の書簡」とか「手紙が出ました」とあるものは、「書簡」でもないし「手紙」でもない、あくまでも「書簡の下書」にすぎない。それらは実際に露の手元に届いたものではない、単なる手紙の反古だ。
鈴木 それから、堀尾は露に対して配慮をしたように言っているが、どう考えても露宛かどうかがはっきりしていない書簡の下書を、しかもそれまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と決めつけ、露が帰天した途端に筑摩が公的に発表してしまったということは果たして如何なものか。
荒木 なになに、ということはこの「露宛書簡下書」は「新発見」と言えないだけでなく、そもそも露宛のものかどうかも実は不確かだというのか。しかも、もしかするとこれらの書簡下書の中には<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となりそうなことが書かれているんじゃないのか。
鈴木 その可能性がなきにしもあらずだ。例えばそのうちの書簡下書の一つ〔旧不5、252a〕、これはかなり以前から知られていた「書簡の反古」の一つでもあるのだがその中に、
 法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年第三版)101pより>
というくだりがある。しかし、クリスチャンだった人がそんなに簡単に仏教徒に鞍替えするなどということは私には信じられないが、同巻が実はこれは露宛書簡の下書と推定されると活字にしてしまったものだから、露は賢治に取り入ろうとしてキリスト教を棄てて法華経信者になったと読者から受け止められ、結果蔑まれ、それが<悪女>とされる一つの要因にもなっていることは否めない。
吉田 それまで信じていた宗教を異なった宗教に改宗するということは、個人の信仰上極めて重要な問題であるにもかかわらず、露のそれに関してはどうやら筑摩は裏付けも取らずに公に発表してしまったと言える。そのような「要因」になる虞があるといういうことは誰にでも容易に想像が付くものなのに。
荒木 逆に、それが取れなかったのであれば筑摩はこんなこけおどしともとれる「新発見」を持ち出すなと俺は言いたいよ。
吉田 実際、筑摩がこれらの「書簡下書」は露宛の「書簡」であり「手紙」であると推定して活字にしてしまった結果、その影響は極めて甚大で、全国的にこのことがあたかも事実であるかの如くに流布してまってこの有様だ。それまでは「彼女」「女の人」などという表現とか仮名(かめい)「内村康江」では一部にはある程度知られていたが、いきなり実名で全国的に公表された。しかも果たしてその人なのかどうかも検証等されぬままにだ。
荒木 いくら、配慮をしたので亡くなった後に公にしたと弁明したところで、もしこのことを露が生きているうちに行った場合に、露が『それは事実でない』と異議を申し立てるということがなかったと誰が保証できるんだべがね。
鈴木 一体、露その人の人格や尊厳を何と思っているんだろうか。もし仮に、露が亡くなるのを手ぐすね引いて待っていて、「死人に口なし」を悪用したと誰かに糾された場合に筑摩は果たして何と答えるのだろうか。亡くなった後ならば露に迷惑がかからないなどとよく言えたものだよ、まったく!
吉田 まあ、そう怒るな。検証もせず裏付けもとらなかったと僕らが言いつのっていても、それらは賢治が露に宛てて書こうとした正真正銘の書簡下書であり、しかもほとんどその下書と同じような内容の書簡が露宛てに投函されていたとなればとやかく言ってばかりもいられない。
 もしかすると、全く公にされていない賢治宛来簡が実は存在していて、その中に露からの来簡もあるので「露宛書簡下書」であるということが判断ができていたので、露が帰天したのを見定めて「新発見」とかたって公にしたのかもしれんしな。
 そのような可能性もないとは言い切れないから、ここは他人のことをとやかく言うのはちょっと措いといて、その「新発見」の「露宛書簡下書」が如何なるものかを実際僕らの目で見て考えてみることがまず先だろう。 
鈴木 それもそうだな。それじゃ、『同第十四巻』を見てみよう。まずは、どのような「書簡下書」が新たに発見されたかについてだが、それについては次のように述べられている。
(1) 昭和四年のものとして〝〔252b〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟が新たに発見された。その内容は以下のとおり。
お手紙拝見いたしました。
南部様と仰るのはどの南部様が招介((ママ))下すった先がどなたか判りませんがご事情を伺ったところで何とも私には決し兼ねます。全部をご両親にお話なすって進退をお決めになるのが一番と存じますがいかがゞでせうか。
 私のことを誰かゞ云ふと仰いますが私はいろいろの事情から殊に一方に凝り過ぎたためこの十年恋愛らしい
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)30pより>
(2) 昭和四年のものとして〝〔252c〕〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟も新たに発見された。その内容は以下のとおり。
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。…(筆者略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
            《用箋》「さとう文具部製」原稿用紙
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)31p~より>
つまりこの2通の書簡下書が「新発見」だったと筑摩はしている。
吉田 それから、今の2通は同巻では「本文」として載せているもので、その他にも「新発見」と銘打っているものとしては次の二つ
(3) 「新発見の下書(一)」
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。…(筆者略)…誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
(4) 「新発見の下書(二)」
  お手紙拝見しました。今日は全く本音を吹きますから
             《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<共に『校本全集第十三巻』(筑摩書房)33pより>
もあると言っている。
鈴木 実はこれらに関しては、私は〔252c〕と「新発見の下書(一)」は連続ものであり、次のように一つにまとまると判断している。いわば
〔改訂 252c〕として
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。…(筆者略)…もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでに
      ←(すんなり繋がる)→ 
なすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。
のように一つにまとまる。
荒木 な~るほど。前者の最後が「…買ひ被っておいでに」で、後者の始まりが「なすってゐるものだと存じてゐた次第です」だから、確かに〝(すんなり繋がる)〟な。
吉田 しかも、前者では「私を遠くからひどく買ひ被っておいでに」とあり、後者では「その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます」とあるから、文章的にも「対」になっている。よく気付いたな。
鈴木 まあな。でもさ、こんなのは少し読み比べてみれば直ぐ気がつくことだろ。逆になんか釈然としないんだよな。
荒木 そういやあそうだよな。一緒に見つかったものであれば当然その可能性を探るはずだからな。
 それにしてもそもそも、普通、賢治って「主義などといふから悪いですな」などというような言葉遣いをするか?
鈴木 確かにな。

 果たして「昭和4年」か?
◇「判然としている」とはいうものの
吉田 そして筑摩は、「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」(『校本全集第十四巻』(筑摩書房)34pより)と、「内容的に」の〝内容〟が具体的にどのようなものかも、あるいはまた「高瀬あてであることが判然」の根拠も示さぬままにあっさりと断定し…
荒木 待て待て、ここでいう「本文」とは何を指すのだ?
鈴木 それは同巻によれば、「新発見」の〔252b〕及び〔252c〕のことを指す。
 そしてこの「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の下書「不5」については、
 新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があると見られるので高瀬あてと推定し
<『校本全集第十四巻』(筑摩書房)28pより>
て、「不5」に番号〔252a〕を付けた、と説明はしている。
荒木 な~んだ、〔252b〕及び〔252c〕は露宛のものだと断定できるだけの十分な根拠がない上に、そのようなものを基にして〔252a〕も「高瀬あてと推定し」たということに過ぎないのか。そしてその段階のものを、露が亡くなったので慌てて公表したというわけだ。そんなごどでいいんだべがね。「校本」と銘打っている割には甘いんじゃねぇ。
吉田 僕も以前、同巻が「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」としている理由をあれこれ推考してみたがなかなか合点がいかないでいる。
 ここはやっぱり、読者に対してもう少し具体的な理由を提示しながら、納得のいくような説明をしてほしいものだ。そうしないと、このような断定の仕方は、実は露からの賢治宛来簡があってそれを基に判断したのだが、賢治宛書簡は一切ないと公言している手前、明らかにできないのであろう、などと勘ぐられかねない。
鈴木 まして従前の「不5」、つまり〔252a〕
お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。…(筆者略)…けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
  尚全恢の上。
《用箋》「丸善特製 二」原稿用紙
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)454p~より>
については当時はどのように見られていたのかというと、『校本全集第十三巻』では次のような「注釈」、
 あて先は、法華信仰をしている人、花巻近辺で羅須地人協会を知っていた人、さらに調子から教え子あるいは農民の誰か、というあたりまでしかわからない。高橋慶吾などが考えられるが、断定できない。
<『校本全集第十三巻』(筑摩書房)707pより>
を付けていて、「あて先」は実質的には男性の誰かであろうと推測している。その「注釈」からは、それが女性であること、まして露その人であることの可能性もあるなどということは読み取れない。
荒木 それは、クリスチャン高瀬露がまさか「法華信仰をしている人」に変わっていたなどとは、普通は誰だって考えもしないであろうことからも当然だべ。
鈴木 しかもだ、次のことを筑摩の担当者は知らないわけがなかろうと思うだが、あの森が『宮澤賢治全集 別巻』の中で、
   書簡の反古に就て
 書簡の反古のうち、冒頭の數通は一人の女性に宛てたものであり…(筆者略)…反古に非ざる書簡は、二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが、眞僞のほどは、いまは解りかねます。…(筆者略)…
 ――これら反古の手紙の宛名の人は、全部解るのでありますが、そのままにして置きました。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日    
第三版)附録72p~より>
と述べている。そして、森が言っている「冒頭の數通」の中の一通としてこの「不5」をそこで挙げている。したがって、同じ「不5」に対してであるのというのに、先ほどの「注釈」と森の認識とでは異なっている。「注釈」では男性なのに、森の認識は女性だからだ。
吉田 なおかつ、森は「宛名の人は、全部解るのでありますが」と述べているので、この言を信じれば森は早い時点からこの「不5」すなわち〔252a〕の宛名を、その女性の名を知っていたということになる。
鈴木 しかし一方で、森はここで「二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが」と述べ、しかもこの「二人の女性」とは伊藤ちゑと露であるということもそこで実質明らかにしている。これも奇妙なことだと思わんか、荒木。
荒木 あっそうか。前に話題になった、森が上田に直接証言したという「〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった」と矛盾している。先ほどの森の記述「二人の女性とも手元に無いと言明してをりますが」を信じれば、森は露とこの時も会ったことになるから、計二回会っているということになるからな。
吉田 しかも以前に触れたことだが、『ふれあいの人々』の中にも似たようなことがあっただろう。
荒木 あっ、そおそお。そこで森は『何人もの子持ちになってから会って云々』と述べていた。すると計三回となるべ…だめだこりゃ。もはやこれで決定的だな。森が露に関して述べていることはほぼ当てにならんということだ。
吉田 実は、高橋文彦氏が「宮沢賢治と木村四姉妹」という論考の中で
 彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。
<『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社)81pより>
と述べている。
荒木 そうなんだ、世の中には似たような人がいるもんだな。
鈴木 あっそっか、そういうことな。
◇「昭和4年」であることの不思議
荒木 ところでさ、さっき「昭和4年露宛書簡下書」ということだったが、そもそもなぜ「昭和4年」と言えるんだ?
吉田 それに関しては、以前、『新校本全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)を用いて僕も少し調べてみたことがある。
 本書簡に書かれた賢治の病状は、昭和四年末ごろから五年はじめにあたるもので、かつ252cが四年十二月のものとみられるので、252a~252cはすべて四年末ごろのものと推定し
<『新校本全集第十五巻 書簡校異篇』(筑摩書房)142pより>
たと言うんだな。なお、ここで言う「本書簡」とは〔252a〕のことを指している。
鈴木 しかしその時の病状ついては、〔252a〕には「左の肺にはさっぱり息が入りません」とそこに書いてあるだけなんだよ。この一言だけでどうして「昭和四年末ごろから五年はじめにあたる」と判断できるのだろうか。
 実際、『新校本年譜』をいま捲ってみているところなんだが、どこにもそんな病状の記載は見つからない。確かにその頃賢治はそのような症状を呈していたかもしれないが、例えば急性肺炎になって病臥していた昭和3年末~昭和4年始めだって似たような症状があったはずだから、さっきのは十分条件ではない。他の年の昭和6年や7年だってさえもあり得る。
荒木 やはりここでもその根拠は明確ではないということか。それじゃ〝一連の「書簡下書」〟がズバリ昭和4年のものであるということを示すような明確な根拠は結局ないのか。
吉田 ない。そもそもこの〝一連の「書簡下書」〟に関する筑摩の推論は、あることを推定し、それを基にしてまた別のあることを推定してそれを繰り返すというものだ。したがって、確率の乗法定理と同じで、そのことを繰り返す度にその蓋然性は当然下がってゆく。
鈴木 そうなんだよ、そこにあるのは危うさの連続とその自己増殖だけだ。このことが危惧されると思ったから、先ほど挙げた〝「新発見」の「書簡下書」〟のそれぞれには《用箋》名も付記しておいた。例えば、
   〔252b〕:「丸善特製 二」原稿用紙
   〔252c〕:「さとう文具部製」原稿用紙
というように対応する。
 すると、「新発見」とかたっている一緒に見つかったはずの4通のうちの〔252c〕のみが《用箋》の種類が違うことが判る。しかも、この〝一連の「書簡下書」〟の《用箋》を調べてみれば、この〔252c〕以外は全て皆「丸善特製 二」原稿用紙であることもまた判る。
荒木 えっ、いずれも「昭和4年露宛書簡下書」ということなのに、なぜ〔252c〕だけが「さとう文具部製」原稿用紙なのだ。しかもこの〔252c〕が今回の「新発見」となるため、かつ、「露宛」と推定する際の最大の鍵を握っているというのに、これだけが他のものと種類が違っているということは普通あり得ねえべ。
吉田 あっ、そうか。だからだ、よさっき鈴木が『逆になんか釈然としないんだよな』とぼやいたのは。〔252c〕と「新発見の下書(一)」とは《用箋》が異なっていることを筑摩もかなり訝っているんだよ、おそらく。何かきな臭いぞ。
鈴木 なるほどな。しかも、『校本全集第十四巻』の35pでは、「252a~252cはかなり短い時期に連続して書かれたものとみられる」と見定めているから、なおさらにだ。
荒木 結局は、〝一連の「書簡下書」〟は「昭和四年末」頃のものであるという明確な根拠は実はなくて、単にその可能性もあるということにすぎないのか。なあんだ。
鈴木 それに、前掲の〔252c〕の中には、
 あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。
と書かれている部分があるのだが、「あゝいふ手紙」という表現からそれは「複数の手紙」と解釈できるし、そして実際、続けて「前の手紙は…」と書き、「あとのは…」とも書いてることからは、賢治は「露と思われる人物に」2回は少なくともこの時に手紙を出していることになるから、昭和4年末頃になっても複数回の書簡を二人は往復させていることになる。
荒木 しかしさ、昭和2年の夏頃のことになるのだろうか、賢治は「レプラ」であると詐病して、しかも顔に灰を塗ってまでしても拒絶したと巷間言われている露との間に、昭和4年末頃になってもまだ複数回の書簡の往復があったというのか? 常識的に考えてかなり変だべ。
吉田 一方で、昭和3年の伊豆大島行から帰った賢治は、
 あぶなかった。全く神父セルゲイを思い出した。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と、伊藤ちゑのことを藤原嘉藤治に語ったという。そのような想いをそれぞれに抱いたと言われている賢治が、昭和4年末頃になっても露に手紙を出していたということになる。しかもあのような内容のだぞ。
荒木 普通そんなことはあり得ねえべ。昭和2年の夏頃から2年以上も過ぎてしまった昭和4年の末にこったな手紙を書こうとしたというのか。逆に、こんなことをしていたというのであれば「拒絶」は実は真っ赤な嘘で、賢治は昭和2年の夏頃以降もず~っと、露に未練があったのだ、などと言われかねない。
鈴木 しかも何と23通もの〝一連の「書簡下書」〟を書き、あげくそれを残しているなんて普通はあり得ない。
吉田 そうさ、普通、手紙の反古は即座に処分してしまうだろう。実際賢治だって、これらの書簡下書内で、相手に対して「(この手紙を破ってください)」(〔252c〕)と伝えているくらいなのだからなおさら、自分が書いたこのような男女間のもめ事を記した反古は即刻焼却処分してしまうという理屈になるはずだ。ところが、あろうことかその反古が後生大事に残され、それも二カ所に分けて残されていたということになるだろう。そんなことは常識的に考えてあり得ない。
荒木 となると、もしかするとこの事件の裏にはもっと複雑な事情があるのかもしれんな。
吉田 そこまで穿った見方は僕にはできないが、いずれ調べれば調べるほど疑問があとからあとから湧いてくるのがこの〝一連の「書簡下書」〟だから、このことに関する詮索はもう止めにして、次は肝心なこと、この〝一連の「書簡下書」〟が果たして露宛てなのかどうかを検証しようよ。

 果たして「露宛」か?
鈴木 それでは、とは言っても〝一連の「書簡下書」〟は露宛のものだという確証もあまりなさそうだが考えてみるか。
◇〔252a〕〔252b〕についての疑問
吉田 まずは〔252a〕ついてだ。
鈴木 この〔252a〕、またの名「不5」は以前も話題にしたように、その中には「法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます」という一文があり、この「法華をご信仰なさうですが」という一言から、果たしてこれは賢治が実際に露に宛てて書こうとした「書簡下書」であるかどうかについては疑問に思っている人がいるだろう。
吉田 確かにそのとおりで、実際、 
 ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。(愛について語っているのだから男性ということはない。当時男は愛などは口にしなかった。)それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある。以上疑問として提示しておく。
<『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223pより>
という疑問を米田利昭は投げかけている。
鈴木 それから今のこと程は重大な問題でないのだが、前掲の「新発見」の書簡下書〔252b〕についても私は多少疑問がある。もしこれが露宛であるとすれば、賢治は少なくとも「南部様と仰るのはどの南部様が招介((ママ))くだすった先がどなたか判りませんが」などというようなつっけんどんな書き方はしないと思うからだ。
荒木 それはなんでまた?
鈴木 というのは、羅須地人協会員の一人伊藤與蔵の
 ただ先生が病気で休んでいる時、お見舞いに行ったことがありますが、何の話をされた時でしたか覚えていませんが「法華経について知りたかったなら高瀬露子さんが良い本を持っていますからお借りして読んでみなさい」と言われたことがあります。その本の名前は忘れましたが「日蓮宗の何とか」というような気がします。私は高瀬さんへ行ってその本をお借りして読み、先生に言われた農学校前の南部さんのお寺へ返しました。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社)42pより>
という証言からは、賢治は「法華経に関するある本」を露に又貸しし、與蔵はさらにそれを露から又借りし、結局最終的には與蔵が本来の持ち主の「農学校前の南部さんのお寺」に返したということがわかるからだ。
荒木 そうか、賢治と露との間には少なくとも共通に認識している「南部」が一つはあったと考えられるから、そんなつっけんどんな言い方をするわけはない、ということになるのか。それにしても、ということはやはりある時期賢治と露は案外良好な関係にあったんだ。
鈴木 あっそういうことか。賢治が「南部さんのお寺」から借りた本を露に又貸しするくらいだから、二人の間にはかなり信頼関係があったと確かに言えるからな。
吉田 しかしさ、つっけんどんだったのは露を拒絶するためにわざとそう言い放ち、とぼけたということかもしれんぞ。
荒木 でも賢治はそんなとぼけ方をするか。がもしそうであったするならば、少なくともある時期までは露と親密で良好な関係にあった賢治が、その相手露に対してこんな言い方をしていたということになるので正直がっかりだな。俺の尊敬する賢治がそんなことをするはずはない…。
 そおだわがったぞ。もしかすっと、この「書簡下書」はだれかが偽造したものかもしれんぞ。そもそも前から感じてたのだが、〔252c〕を読んでみるとその文章表現の仕方はとてもじゃないが賢治のイメージからはほど遠い、と。
吉田 おいおい物騒なことを言うなよ。確かに賢治のイメージからはほど遠いが、よりによって偽造はないだろう。
鈴木 いずれ、〔252a〕にせよ、はたまた〔252b〕にせよ、それらが露宛のものであると断定するためにはまだまだ乗り越えなければならないハードルがあるということだ。とりわけ、米田も指摘しているところの「ここは<法華をご信仰>とある」という疑問は必ず解消せねばならないそれだ。それができなければ、いくら「露宛書簡下書」だと断定したところで客観的な説得力は持ち得ないだろう。
荒木 それじゃ、俺もそれに異議がないから現時点での俺たちの結論は
 あやふやな点が少なからずある書簡下書〔252a〕及び〔252b〕については「露宛書簡下書」とは断定できない。
ということで決まりだべ。
◇検証用資料としては使えない
鈴木 ではいよいよ次は本丸の、『校本全集第十四巻』が「内容的に高瀬あてであることが判然としている」ときっぱりと断定している「新発見」書簡下書の〔252c〕について考えてみよう。
吉田 いやっ、鈴木が見つけたように〔252c〕と「新発見の下書(一)」は続き物であることはまず間違いないから、それらを繋げて先に名付けた
 〔改訂 252c〕
重ねてのお手紙拝見いたしました。独身主義をおやめになったとのお詞は勿論のことです。主義などといふから悪いですな。…(筆者略)…一つ充分にご選択になって、それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし。どんな事があっても信仰は断じてお棄てにならぬやうに。いまに〔数字分空白〕科学がわれわれの信仰に届いて来ます。…(筆者略)…さて音楽のすきなものがそれのできる人と詩をつくるものがそれを好む人と遊んでゐたいことは万々なのですがあなたにしろわたくしにしろいまはそんなことしてゐられません。あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)私の勝手でだけ書いたものではありません。前の手紙はあなたが外へお出でになるとき悪口のあった私との潔白をお示しになれる為に書いたもので、あとのは正直に申し上げれば(この手紙を破ってください)あなたがまだどこかに私みたいなやくざなものをあてにして前途を誤ると思ったからです。あなたが根子へ二度目においでになったとき私が「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのまゝではだんだん間違ひになるからいまのうちはっきり私の立場を申し上げて置かうと思ってしかも私の女々しい遠慮からあゝいふ修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考へください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申し上げませう。あなたは私を遠くからひどく買ひ被っておいでになすってゐるものだと存じてゐた次第です。どんな人だってもにやにや考へてゐる人間から力も智慧も得られるものでないですから。
その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。これぐらゐの苦痛を忍ばせこれ位の犠牲を家中に払はせながらまだまだ心配の種を播く(いくら間違ひでも)といふことは弱ってゐる私にはできないのです。誰だって音楽のすきなものは音楽のできる人とつき合ひたく文芸のすきなものは詩のわかる人と話たいのは当然ですがそれがまはりの関係で面倒になってくればまたやめなければなりません。
で検討すべきだ。
鈴木 そうか、じゃあそうしようか。では荒木、この中身についてどう思う。 
荒木 うん? 俺がか。賢治を尊敬している俺にとっては言いづらいところもあるが、寄ってたかって弱い者虐めをされているが如き露に味方して…正直に言う。はっきり言って賢治らしからぬ点が多すぎる。
 まず、文章構成がめためただべ。またその表現の仕方が、
  ・などといふから悪いですな
  ・(よくお読みなさい)
  ・(この手紙を破ってください)
  ・私みたいなやくざなものをあてにして
  ・もっとついでですからどんどん申し上げませう
  ・あゝいふことは絶対なすってはいけません 
というような露悪的な表現等からは、今まで持っていた賢治のイメージとは真逆の印象しか受けない。
吉田 そうなんだよな。あまりにも賢治らしからぬ文体の「書簡下書」であり、極めて違和感がある。誤解を恐れずに言えば、他の書簡とは違ってこの〝一連の「書簡下書」〟、とりわけ〔改訂 252c〕からは、尊大さ、上から目線、露悪的、軽薄さ、お為ごかしなどさえも感じられて、正直やりきれない。
鈴木 私もこれらに対しては、『えっ! 賢治ってこんな文体の手紙を書くことがあるのか』とがっかりしたものだった。
 そして同時にがっかりしてるのが、〔252c〕のことを『同第十四巻』が「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と述べてはいても、ここに至っても私には一体それはどこからそう判断ができるのか全くわからないからだ。二人はどうだ?
荒木 例えば、
(1) それから前の婚約のお方に完全な諒解をお求めになってご結婚なさいまし
とか、
(2) あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので…(著者略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。
というようなことを実際に露がしていたという、他の証言や資料があればそうと言えるかもしれないが…。
吉田 まずは前者(1)については、いくら賢治の発言とはいえ「ただならぬ物言い」だ。こんなことが書かれているとこれを素直に読んだ読者は皆、
・露には前の婚約者があった。
・しかも露はその人との婚約を破棄して、新たな相手と結婚しようとしている。
・賢治はそのような露に対して前の婚約者からはちゃんと了解を求めなさいとアドバイスした。
と、次に後者(2)からは、
・露は賢治に三日続けて手紙をよこしたり、
・夏から三べんも写真をよこしたりもした。
とそれぞれ受け取るだろう。
荒木 果たして本当に露にはそんなことがあったというんだべが。この部分を真に受ければ、露にとっては分が悪いところが少なくないぞ。
鈴木 少なくとも上田哲は、『七尾論叢 第11号』においてそんなことがあったということも、そのような噂があったなどということさえも一言も述べていない。もちろん一般にもそんなことがあったなどとは言われていない。
荒木 となれば、この「ただならぬ物言い」はなかなか厄介者だな。
鈴木 そこなんだ。そのような数々のことが露にあったということを検証した上で、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したのであればいいのだが、ここまで調べてみてほぼ判るようにそうとは思えない。
 実はかつてこんなことがあった。『拡がりゆく賢治宇宙』の中に
 楽団名メンバーは
    第1ヴァイオリン 伊藤克巳
       …(略)…
    オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79pより>
という記述があったので私はこれを見つけて喜んだ。それは、例の楽団に時に千葉恭も加わっていたことをこの記述から知ることができたからだ。
荒木 どういうこと?
吉田 それはさ、実質2年4ヶ月にわたる下根子桜時代、賢治は一般には「独居自炊」といわれているが、実はある期間少なくとも半年間はこの人物と一緒に暮らしていたのだ。そのことをほら、鈴木は以前自費出版した『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』で実証したわけだ。
鈴木 それでその際に不思議に思ったのが、賢治も含めて周縁の人たちの誰一人として千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らしていたという証言や資料を残していなかったことだ。
 ところが、この『拡がりゆく賢治宇宙』にこのように記載されてあったから、誰かが千葉恭はあの楽団のメンバーの一人だったということ、つまり、下根子桜の賢治の許に千葉恭が時に来ていたということを実質的に証言していると考えたのだ。
 そこで私は、出版元にこの出典はなんですかと問い合わせた。するとその答えは『あれは間違いです』というものだった。
 ならばと、この部分の執筆者を探し出して訊いてみたところ、
 あれは、私が平來作から直接聞いたことです。ところが、千葉恭については他の人の証言がないからということで、『賢治年譜』には載っておりません。
<平成26年11月14日、阿部弥之氏より>
ということであった。そこで私は思った。そうか、流石「賢治年譜」、資料として載せるか否かの判断は厳しいんだと。ちなみに『新校本年譜』を見てみると、
 しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり、時によりふえたり減ったりしたようである。
<『新校本全集第十六巻(下) 年譜篇』(筑摩書房)314pより>
となっていた。平や渡辺の場合にはどんな他の証言等があって載せたのかを筑摩は明示していないが、確かに肝心の千葉恭の名前だけはすっぽりと抜け落ちている。
 そこで私もその徹底した筑摩の態度を見習って、「一人の証言だけとか、一つの資料だけとかに基づいて賢治の伝記研究をしてならないのだ」と改めて自覚した。
荒木 ということは?
吉田 千葉恭の場合にそれほどまでに徹底しているのであれば、先ほど僕が列挙した事柄についてもちゃんとその他の証言や資料を基にして検証しろと鈴木は怒っているのさ。
荒木 そりゃそうだろう。そうでないと筑摩はダブルスタンダードだベ。
吉田 もしかすると何らかの理由があって、千葉恭は意識的に無視されてるのかもしれんな。
鈴木 なお、千葉恭のご子息から直接聞いたことだが、『父はマンドリンを持っていました』ということだったから、先の『拡がりゆく賢治宇宙』の件の記載内容はまず間違いないと判断できる。したがって、千葉恭は時に下根子桜に確かに来ていたということを平來作は正しく証言していたことになるだろう。
吉田 だからこそ、この「新発見の252c〔高瀬露あて〕」を活字にして公にしようとした筑摩は、これに対応する露からの賢治宛来簡を見つけ出す等の裏付けを取る最大限の努力をせねばならなかったのだ。
 しかるに現時点でもこの出版社は、賢治に来た書簡はいまだ一切載せておらず、賢治が出した書簡ばかりを載せている。しかも、来簡を一切載せていないというのにかかわらず、賢治の書いた書簡下書、手紙の反古さえも載せている。これはあまりにも不公平なことだ。
荒木 そりゃそうだよ。賢治からの往簡だけではその書簡の内容の信頼性は担保されているとは言い難い。まして反古であればなおさらにそうだべ。
鈴木 不思議なんだよな。あれだけの膨大な全集をあの出版社は何度も出版しているのに、
  なぜ賢治宛来簡が一通も公になっていないのか。
という大問題については、私の知る限り同社出版の全集のどこを開いて見ても全く論じられていない。一体この大問題を同出版社は究明する気があるのだろうか。また、関係者も同様にだ。
荒木 そうなのか、俺はついつい「書簡集」には往簡も来簡もどちらも載っているものとばかり思っていた。来簡が一通も存在しないというのは極めて不自然だ。
吉田 確かにある雑誌に、著名な賢治研究家の『来簡があるのは公然の秘密みたいな((註八))云々』という発言が載ってたな。とはいえ、賢治宛来簡は何らかの事故があって一切なくなってしまったというのならばそれはそれでやむを得ないとことだと僕は思う。しかしあれだけの膨大な『校本全集』を二度にわたって出しているのだから、それならばそのことについて究明した論考や納得のいく説明を『同全集』に載せてしかるべきだ。
荒木 そうだよな。来簡があるならば公開すべきだ。そうしないと、賢治からの往簡やその下書だけが公開されたことによっ不利益を受けた人も当然いただろう。
 実際、「露あてであることが判然としている」と言い切って〔252c〕などの「書簡下書」が公にされたがために露はすこぶる不利益を被っているのだから。
鈴木 したがって、先ほど荒木が挙げた(1)や(2)に関してはそれを裏付けるものを当事者は提示すべきだし、もしそれができなければ、こんな書簡の反古など公開するなと私は抗議したい。あまりにもアンフェアな行為だし、安易だ。
吉田 はっきり言って、〝一連の「書簡下書」〟を露宛のものであるなどとかたってその根拠も理由も明示せずに安易に活字にした筑摩の出版行為は詐欺行為みたいなものだ。
鈴木 おいおい、流石にそれは言い過ぎだよ。
吉田 いや、少なくとも僕はそう思っている。露にはもはや為す術がないのだから……
鈴木 では次に行くか? 私は、
 その他の点でも私はどうも買ひ被られてゐます。品行の点でも自分一人だと思ってゐたときはいろいろな事がありました。慶吾さんにきいてごらんなさい。それがいま女の人から手紙さえ貰ひたくないといふのはたゞたゞ父母への遠慮です。
という賢治の発言部分にも看過できない問題点があるということを言いたい。この部分からは、賢治が下根子桜にいた当時のことについて、
 私(賢治)には品行上でいろいろな事があった。それも女性問題でもだ。わたしは買い被られているだけで、それが疑問だと思うならば慶吾はそのいろいろな事を知っているから訊いてみるといい。いまは、女性問題のことでもう両親を苦しませたくないのです。
と相手に対して打ち明けていると読み取れる。ということになれば、この時の書簡の相手とは露でない女性であろうと考えられる。なぜなら、その頃の出来事についてはしばしば賢治の所に出入りしていた露なのだからかなりの程度のことは知っていただろうし、露と慶吾は以前から懇意だったのだから、慶吾からある程度のことを露は聞き知っていたと考えた方が自然だと思えるからだ。
 また一方で、当時下根子桜に出入りしていた女性としては露以外にもいるという関登久也の証言『協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり((註九))』や賢治の教え子簡 悟の似たような内容の証言( (註十))もあるからだ。
 そうすると、そのような露に対して、このような状況下にあったとも考えられる賢治がこのような手紙を書こうなどとすることはあまり考えられず、その相手は少なくとも露以外の女性だと考える方が妥当だろう。
吉田 僕は、この〔改訂 252c〕については時期的な点での疑問もある。それは、次の
 あなたが根子へ二度目においでになったとき私が『もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、』と申しあげたのが重々私の無考でした。…(略)…今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。あゝいふことは絶対なすってはいけません。
におけるものだ。
 例えば、この中の「あなたが根子へ二度目においでになったとき」とは、もしこれが露宛のものだとすれば、露が二度目に下根子桜を訪れた時期は大正15年のことであることはほぼ間違いない。ところが賢治はよりによってその頃の出来事を、それから3年以上も経った昭和4年末にまたぞろほっくり返したということになる。
鈴木 そうだよな、「今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになった」の部分に注目すれば、下根子桜に出入りしていた露がその頃に「三べんも」寄越したことになる写真の話を、同じような長期間を経てこれまた昭和4年末になって再び持ち出して、この期に及んで「あゝいふことは絶対なすってはいけません」というように手紙で賢治が諭したということになるのだが、そんな間延びしたことが果たしてあり得るか?
吉田 下根子桜であれだけ世話になった露に対して、かなり時間が経ってしまった昭和4年末になってから弁解がましく言い訳をし、しかも最後にしれっとして、「あゝいふことは絶対なすってはいけません」というようなお為ごかしみたいなことなどは、僕には絶対言えん。
荒木 そう言われてみると、時期的、時間的な無理があるということがよぐわがった。だからそんな無理な解釈、つまり〔252c〕は露宛のものだというよりは、少なくとも露を除いた女性であると解釈した方がはるかに説得力がある。
鈴木 ということで、我々三人の結論は、〔252c〕の相手の女性は露以外の女性である可能性が大である。また、〝一連の「露宛書簡下書」〟はいずれもこの〔252c〕を元にして、さらに推定されたものであるから、「新発見」と言うところの〔252c〕を含む〝一連の「書簡下書」〟の宛先は露以外の女性である可能性が大である、ということでいいよな。
吉田 ということだ。
荒木 それからいま俺は思ったのだが、さっき吉田が取り上げた部分と一部重複するけど、「あゝいふ手紙は(よくお読みなさい)…(略)…その前後に申しあげた話をお考へください」の部分は、他にも問題を孕んでいる。
 例えば、もしこの内容が事実だったとすれば、この女性が下根子桜に来た2回目で賢治は早くも「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども」ということを軽はずみに言ってしまったことになるからだ。
吉田 だから、この賢治の発言がもし事実であったとしたならばそれは取り返しのつかない一言となっただろうな。そしてその続きの弁解の仕方だって言い方がきついが、「さもしい」と言えなくもない。
荒木 確かにそれはきついな。とはいえ、だからこそ思うのだ、もしかするとこの〔252c〕はやっぱり賢治が書いたものではないと、偽造だとまではもう言わないけれども。
 だってさ、さっき俺は「露にとっては分が悪いところが少なくない」と言ったけど、もしこれが正真正銘賢治が書いたものだとすれば、それどころか遙かに賢治の方が分が悪いことになるだろう。
吉田 これはまずい。僕もいつの間にか荒木の考えがもしかするとあり得るかなと思い始めている。いやいや、…でもそれはないな。この時賢治が下書に書いた内容は事実だったのだ。だからこそ賢治は父政次郎から厳しい叱責を受けたのだと、こう考えれば辻褄が合う。
荒木 う……よっしゃ。もはや事ここに至ってしまっては俺も腹を括るしかない。俺が、賢治が書いたものではないかもしれないなどとつい妄想してしまうのは、俺が抱いている賢治像を基にして考えているからだ。これからは、このような分の悪いこともあるのが賢治だと思えばいいのだ。うん。
鈴木 どうやらこうしてみると、〔252c〕にはあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎるから、現時点では賢治の伝記研究上では資料たり得ない。これに対応する露からの賢治宛書簡等の客観的な資料が見つかったりしたならばその時には資料になり得るかもしれないが。
荒木 だから俺たちの現時点での結論はこうだ、
〔252c〕を含む〝一連の「書簡下書」〟にはあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎて、信頼性に著しく欠けているので今回の検証における資料としては使えない。
吉田 裏返せば、〔252c〕は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と言われても、どこが判然としているのかそれが全く判然としない、と結論せざるを得ないといううことだ。
鈴木 それでは、これで〝一連の「書簡下書」〟についての検討はほぼ終えたのでまとめに入ろうか。
吉田 いや一言だけ、それは従前の「不6」、つまり〝252c下書(十六)〟についてだ。その中に
 なぜならさういふことは顔へ縞ができても変り脚が片方になっても変り厭きても変りもっと面白いこと美しいことができても変りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなるで((ママ))す。大いにしっかり運命をご開柘( (ママ))なさいまし。
<『新校本全集第十五巻 書簡校異篇』(筑摩書房)146pより>
という箇所があるが、賢治が『牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなる』等ということを普通言うか? 『…ははは、…』と。
鈴木 そうなんだよな、私も気になっていたところだ。後でまた話題にせねばならぬところだが、まるで昭和7年の中舘武左衛門宛書簡下書〔422a〕中の猛烈な皮肉『呵々。妄言多謝」を彷彿とさせる。まさかこんな言い方を賢治がするとはな。
 「新発見」と嘯いたことの意味と罪
 では、〝一連の「書簡下書」〟について振り返って見たい。
◇「新発見書簡下書」仮説の反例とならず
鈴木 それではそろそろ、〝一連の「書簡下書」〟のまとめに入っていいかな。
荒木 それは俺に任せろ。
 え~とだな、昭和52年発行の『校本全集第十四巻』は、
「新発見」の「書簡下書」がいくつかあり、その中の4通については〔露あて〕と思われるものもがあった。
→とりわけその中の1通は露宛のものであることが判然としていると判断した。そこでその1通に〔252c〕という番号を付けた。
→同時に見つかった他の3通もこれと関連があるので〔露あて〕のものと推定し、〔252b〕などの番号を付けた。
→従前の「不5」も〔252c〕にかなり関連しているのでこれも〔露あて〕のものであると推定し、〔252a〕の番号を付けた。
→併せて従前の「不4」や「不6」なども〔露あて〕のものだと推定した。
→「新発見」の4通と、従前不明だったものとを合わせた計23通の書簡下書は〔露あて〕のものであると推定した。
→これらの23通は昭和4年末頃に書かれたものであると推定した。
ということを活字にして公にした。
吉田 今、荒木が挙げた事柄はどれをとっても皆「推定」ばかりだ。しかも、筑摩は「判然としている」とは主張しているものの全く判然としていない。
鈴木 そう、そのとおり。私もそう思っているし、後で話題にせねばならないが tsumekusaという方もそう主張している。
吉田 いずれの事柄も検証されたものでもなく確たる裏付けがあるものでもない。まあそれでも、同一のある事柄に対してこんな「推定」もあんな「推定」もあるというならばそれらの「推定」の数が増えれば増えるほどそれらの組み合わせで「ある事柄」の生起する蓋然性は加法的に増してゆく。
 しかしだ、今回の『同第十四巻』の場合はこれとは全く違う。検証もせず確たる裏付けもないままに単に「推定」をしたものを一つ土台にして、その上にさらに推定を重ねていくことの繰り返しだから、それをすればする度に信憑性はどんどん薄まってゆく。
荒木 例の確率の乗法定理と同じっていうやつだな。繰り返せば繰り返すほどその信憑性はどんどん薄まってゆく。となれば、〝一連の「書簡下書」〟の全体はいわば砂上の楼閣か。
鈴木 具体的には、我々がこの〝一連の「書簡下書」〟について検討してみたところ、
  ・果たして「新発見」だったのか
  ・果たして「露宛」のものなのか
  ・果たして「昭和4年」のものなのか
等々、これらのどれ一つとっても皆危うい。自ずから、
・〝一連の「書簡下書」〟に関してどれだけの裏付けを取り、検証したのか。
・露は本当に一時『法華教信者』になったのか。
・極めて賢治らしからぬ文体のものある。
・対応する賢治宛ての露からの来簡はあるのかないのか。
・なぜ露が亡くなった後にたまたま「新発見」があったと嘯いたのか。
等々、いくつもの疑念や問題点等が浮かび上がった。
吉田 そこで僕らがこれらについて検証してみたところ、
 現時点では、〔252c〕等を含む〝一連の「書簡下書」〟は「露宛」であるとも「昭和4年」のものであるとも共に断定できない。確たる理由も根拠もないからだ。また、『同第十四巻』は「新発見」と銘打ってはいるが、実は「新発見」などではなかった。
ということがわかった。
鈴木 さて、今回の場合の最大の問題点は、同巻が書簡下書〔252c〕は〔露あて〕のものであるとしてしまった点だ。しかし、我々が検証した限りにおいてはその宛先は露以外の女性である可能性の方が大であることがわかった。
吉田 そもそも筑摩は、この〝一連の「書簡下書」〟は極めて重要な資料となり得るのだから、しっかりとした裏付けをとったり検証をしたりせねばならぬ代物だったのだ。
鈴木 ところがそんなこともなさずに、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」とかたってしまった〔252c〕は、現時点ではあまりにもいろいろな問題点や疑問点が多すぎて信頼性に著しく欠けているので今回の検証のための資料としては使えない。
 しかも、この「判然としている」とかたる〔252c〕を大前提として〝一連の「書簡下書」〟を「昭和4年〔日付不明 高瀬露あて〕下書」であると推定しているのだから、大前提があやふやならば他も推して知るべしだ。
荒木 でもさ、このことに関しては、
 けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、その中には結婚についての記述もあります。
というように実際にある作家が資料として使っていたりもしていたはずだぞ。
鈴木 それはほとんどの人はそうするのじゃないかな。いま荒木が挙げた作家のように、「書簡 252aは昭和4年に高瀬露に宛てたものである」と思い込んだりして、「下書」ではなくて「書簡そのもの」、あるいはそれはポストに投函されたものであるとさえ受け止める人だって少なくなかろう。
吉田 その危惧は全くそのとおりで、あの境でさえも
 賢治が高瀬露にあてた事がはっきりしている下書きの中から問題の点だけをしぼってここに紹介してみたい。
<『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)156pより>
と記しているくらいなのだから。まして一般の読者ならばなおさらにだろう。
荒木 確かに。『同第十四巻』にあのような記述がなされていればこのような流れになるのは当然だと思う。ということは、俺たちだけが〝一連の「書簡下書」〟を疑問視していることになるのだべが…。
鈴木 いやそうでもないから安心してくれ。そりゃあ現時点では極めて少数派だとは思うが、先ほど挙げたtsumekusa 氏もご自身が管理している同氏のブログ〝「猫の事務所」調査書〟の中の「「手紙下書き」に対する疑問」という投稿において、
   …高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
と疑問を投げかけているし、先に引用したように米田利昭も、「ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か」という疑問を呈しているから、我々の判断だけが孤立しているわけではない。
鈴木 では最後に〝一連の「書簡下書」〟による<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証の件だが…
荒木 もはや結論は明らかで、
<仮説:高瀬露は聖女だった>は「昭和4年の〔高瀬露あて〕書簡下書」による検証に耐えている。
 なぜなら、〝一連の「書簡下書」〟は「露宛」であるという確たる理由も根拠もなく、その記述内容の信憑性が極めて危ぶまれるものばかりだから、検証用の資料としての必要条件を欠いているからだ。もはや検証以前の話だ。
 ほにほに、このような危うい反古を基にしてある人の人格や尊厳を貶めるような<悪女>呼ばわりすることが許されていいはずねえべ。誰だこんなことをしたのは! と言いたいね。
吉田 ほんとだよな。普通は破り棄ててしまうような「紙きれ」によって、理由も根拠もあいまいなままに一人の女性が〈悪女〉にされたのではたまったものではない。しかもそれが大出版社によってだぞ。
 それにしてもこの非対称な構図、そしてそれゆえの理不尽…なぜこれは由々しきことなのだという声が今まで起こらなかったのだろうか。このような不条理を許さず、それを排除することこそがまず宮澤賢治研究家の為すべき最たるものの一つだろうに。
鈴木 そうだよな。吉田の言うとおりだ。
 さてそれはそれとして、昭和4年で問題となるのはこの〝一連の「書簡下書」〟だけだから、昭和4年においても<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてもいいということになったわけだ。
吉田 ただし、〝一連の「書簡下書」〟に対応する露からの賢治宛来簡がもし見つかったりしたならば別の可能性もあり得るかもしれないが。
荒木 とまれ、俺たちがここまで調べてきた限りにおいては〈仮説:高瀬露は聖女だった〉を棄却する必要は現時点ではないということになる。いやあ嬉しいな。
鈴木 おっ、その一言また出たな。
◇示し合せて帰天するのを待っていた
荒木 それにしても不思議なんだが、どうして『校本全集第十四巻』はなぜ安易に「新発見」の「書簡下書」として公表してしまったのだろうか。
吉田 そもそも、それを「新発見」と銘打って『校本全集』に載せるのであれば、筑摩は他のもの以上にその反古を徹底して検証等せねばならなかったはずだ。そうそう、それこそ例の「マンドリン」の場合と全く同じように厳しく。
荒木 うん? それってどんな意味だっけ?
吉田 ほら前にも言った、鈴木がぼやいたやつ。千葉恭だけは他の人の証言がないからという理由で「宮澤賢治年譜」には載せられていないという、例のやつのことだよ。
鈴木 でも、「一人の証言だけとか、一つの資料だけとかに基づいて賢治の伝記研究をしてならない」という「賢治年譜」の姿勢は立派だと思うし、それは当然だと思う。
吉田 とはいえ、鈴木は自分が絡むから控えめに言っているだけのことで、「ならば、なぜ『同第十四巻』はそのような厳しい姿勢でこの〝一連の「書簡下書」〟に対しても臨まなかったのか」と実は内心頗る怒っているのだ。
荒木 えっ、そうなのか。
鈴木 いえいえとんでもないことでございます。
吉田 いや、僕自身も深刻に受け止めている、恣意的な証言や資料の使い分けはするなと言いたい。この「新発見」の場合にはもっともっと厳然と対処すべきだったと。ところがそれも為さずに露が帰天するのを手ぐすね引いて待っていて、帰天したならば急遽『同第十四巻』の「補遺」に「新発見」と銘打って載せた。だからこんな中途半端なことになってしまったのだと揶揄されかねないことを僕は危惧している。
荒木 確かにそうだよ。しかも冷静に考えてみれば、仮に〝一連の「書簡下書」〟が正真正銘露宛であるとするならば、その中に記されている賢治のいくつかの言動は残念ながらとても褒められたものではなく、よりダメージを受るのは女性の方ではなく、遙かに男性の方であるという見方も当然あり得るしな。
鈴木 だから、もし仮に〝一連の「書簡下書」〟は賢治が本当に露に宛てて書いた際の反古だったとしても、露一人だけが悪者にされることは全くアンフェアなことであり、まさしく父政次郎の厳しい叱責どおりで、気の毒なことではあるがその全ての責めを負わねばならなくなるのは賢治の方である、ということになってしまう。ところがこのことに気付いているのかいないのか、賢治研究家の誰一人としてそこのところを指摘も批判もしていない。
吉田 まあそれも、〝一連の「書簡下書」〟が本当に露宛だったという仮定の下での話だけどな。
 とまれ、〝一連の「書簡下書」〟について出版元は早急に徹底した検証作業を必ずやる義務と責任があるということではなかろうか。
鈴木 では次は昭和5年だ。これが難題なんだよな。
荒木 えっ、そうなのか。ところでどうした吉田、さっきから何か言いたそうだな?
吉田 実はそうなんだ、言おうか言うまいか迷っているんだ。
荒木 ならばはっきり言えよ。お前らしくもない。
吉田 そうだな、そろそろ次へ移るということなのでやはりここで白状しておく。実は、「こと」の真相を宮澤賢治研究の大御所の一人が明らかにしてるんだ。
荒木 それは誰だよ。
吉田 その人に迷惑がかかるとまずいと思って今まで二人には黙っていたのだが…。え~と鈴木、その『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』を見せてくれ。その中にほら、
 おそらく昭和四年末のものとして組み入れられている高瀬露あて252a、252b、252cの三通および252aの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化((註十一))された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。高瀬露は、昭和二年夏頃、羅須地人協会を頻繁に訪れ、賢治は誤解をおそれて「先生はあの人の来ないようにするためにずいぶん苦労された」(高橋慶吾談)という態度をとりつづけた。公表されたこれらの書簡は、賢治の苦渋と誠実さをつよく印象づけるのみならず、相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。高瀬はのち幸福な結婚をした。
<『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415pより>
とあるだろ。
荒木 じゃじゃじゃ、「救い出している」だって。そんな見方などできるわけねえべ、実態はその真逆だ。誰がそんなことを言ってるんだ。
吉田 それは僕の口からは言えない。ここを見てくれ。
荒木 えっ、大御所の彼がこんなことを言ってるのか。
鈴木 まずい、そこにそんなことが書いてあるなんて気付いていなかった。それにしても、愕然とするな。でもこの大御所がこうまで言っていたというのであればこれでその真相は確定だな。皆が示し合せて露が帰天するのを手ぐすね引いて待っていた、ということなのかやっぱり。
荒木 ひでぇ、皆がぐるになって露が死ぬのを待っていたのか。ということは、実は始めっから書簡下書〔252c〕などを隠し持っていたってわけだ。そして、露が亡くなったならばしれっとして「新発見」と嘯いていたのか。やり方が汚い!
鈴木 そうか、これが「新発見」の意味であり、「新発見」は筑摩の方便だったのか。狡い!
吉田 そう来るだろうと思っていたから言わない方がいいかなと思っていたのだが……正直、白状してほっとした。
 それから、そこには大きな問題がもう一つある。露が帰天するのを待っていて、実際、露が亡くなったらあのように「新発見」と銘打って公にしたわけだが、あれだけ杜撰な状態で発表したのだから、隠し持っていたそれらを事前に真面目に検証などしていなかったということが自ずから導かれるからだ。
鈴木 検証や裏付けを取ろうという気持ちと意志があればいくらでもそのための時間と機会はあったのに、それを為さなかったという大問題があったということか。
荒木 ということは、やはり誰かの思惑と下心があってしかも周りの多くの人がその彼に引きずられたということだべ。
吉田 いやあ、それは憶測になるので僕から何とも…。
◇安易に公表してしまったことの罪
鈴木 それにしても、「私的事情を慮って公表を憚られていた」という釈明はあるものの、私が言うのも憚られるけども、それこそ逆に露のことなど全く慮っていない、あまりにも露をないがしろにした公表だった。
吉田 そうだよ。それまでは森だって、儀府だってその女性の名前を明示にせずに「彼女」「女の人」などという表現とか仮名(かめい)「内村康江」とかを用いているから、少なくとも露に対して慮っていなかったわけではない。なおかつ、『宮澤賢治と三人の女性』や『宮沢賢治 その愛と性』はそれほど部数が出回ったわけでもなかろう。ところがこれが、他でもない『校本全集第十四巻』上でその女性の名は露であると検証不十分なままで「初めて活字化され」て公表されてしまった。まさしく『同第十四巻』は全国的に<悪女伝説>を流布させた最大の功労者だ。
荒木 皮肉?
吉田 そのようなつもりはないが、同巻が行ったあのような公表によってかの伝説は全国に流布してしまった。しかもその女性が露であるとは全く言えそうもないのにもかかわらずだ。
 その実態を知ればなおさら、「相手の女性のイメージをも、これまでの風評伝説の類から救い出し云々」とはよく言えたものだ。そして最後に取って付けたように、「高瀬はのち幸福な結婚をした」と述べているがのあまりにも白々しい。
 また、「これらの書簡は、賢治の苦渋と誠実さをつよく印象づける」とあるが、賢治に「苦渋」があることは手に取るようにわかるが、どこに「誠実さをつよく印象づける」部分があるというのか僕には全く見つけ出すことができない。それどころか、そこからは「誠実さ」の対極にある「不実さ」や「責任転嫁」の方を強く印象づけられる。
荒木 それにしても、筑摩は「判然」としていないものをなぜ安易に決めつけて本名を公表し、その結果、謂われ無き<悪女伝説>を全国に拡げてしまう片棒を担いでしまったのか。全く罪なことをしてしまったものだ。もしこの公表が露の帰天前だったならば、露はどのように思ったんだべ?
鈴木 そうそう、それを教えてくれそうな格好の書簡がある。
荒木 じゃあそれを見せてくれよ。
◇伊藤ちゑの懇願が示唆
鈴木 これがそれで、伊藤ちゑの「藤原嘉藤治宛書簡((註十二))」だ。何年のものかは判らないが、嘉藤治が在京して『宮澤賢治全集』(十字屋書店版)の編集委員をしていた頃のある年のものであろう10月29日付の書簡だ。この中に、
 宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます
というちゑの切実な懇願がある。
吉田 まさに露の〝一連の「書簡下書」〟の場合と全く同じ構図じゃないか。しかし、このような書簡はあまり世に知られていないはずだが。
鈴木 それはそのとおりで、以前、伊藤ちゑの生家の現当主から教えてもらったものだ。
荒木 確かに同じ構図だな。嘉藤治らが全集に「伊藤ちゑ宛と思われる書簡下書」を載せるということのようだからな。
吉田 それでそのことに対してちゑがどうしたかというと、
・「伊藤ちゑ宛と思われる書簡下書」の中身を自分は知らないのでビクビクしている。せめてそれを見せてもらえないか。
・確かに、ちゑという名前を出さないという約束だったから一応了承してみたものの、なるべくならばそれは止めてほしい。くどいのですがそれは賢治さんが実際には投函しなかったものだからです。どうかその反古はそのまま葬り去ってください。
と懇願したというわけだ。
荒木 う~む。共に自分に宛てられたと言われている手紙の反古、ちゑも露も当時の女性、そのどちらも相手の男性は賢治。ということは二人は同じような状況下に置かれていたわけだ。
 すると、筑摩の担当者から露に対して、
「露さん宛と思われる書簡下書」を今度『校本全集』に載せたいのですが…
という打診が露の帰天前に露に対してなされていたならば、露はちゑと同じような心境におかれ、同じような懇願をしたということが十分に考えられる。
 なるほどな、露が事前にそのような打診をされた場合にどう対応するであろうか、ということをこの「伊藤ちゑの書簡」が示唆しているということか。
吉田 そして、ちょっと想像力を働かせれば、露やちゑと同じような状況下におかれた女性はこの時のちゑのように対応する可能性があるだろうということは容易に想像できることだ。だから、もしかするとそのことを恐れた彼らは帰天する前に公表することを避けたという可能性すら逆に浮かび上がってくる。
荒木 そっか、そうすっと中には、
 その〝一連の「書簡下書」〟が「内容的に高瀬あてであることが判然として」いなかったからこそ、そうした。
などと皮肉る人もあるベな。
吉田 そうよ。この「新発見書簡下書」公表のタイミングが不自然だと感じた人の中には、『慮ったのは露に対してではなくて、自分たちに対してだ。このよう公表の仕方はまさに「死人に口なし」を悪用したものである』などと皮肉る人だっていないわけではなかろう。
荒木 おっ、吉田もとうとう言ったな。しかもそれって、お前の本心だべ。
吉田 いやあ、まさか。客観的に見てその可能性を言っただけだ。
鈴木 何はともあれ、我々はこれだけの問題提起ができた。だから例えば、ちゑのこの嘉藤治宛書簡の存在を知った人たちがその意味するところを汲み取り、〝一連の「書簡下書」〟の公表の仕方には大いに問題があったという我々の主張を支持してくれること等を願いつつ、そろそろ次の、難題の昭和5年に今度こそ移ろう。

 続きへ。
前へ 
 〝「聖女の如き高瀬露」の目次〟 へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
  ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第二章 羅須地人協会時代の... | トップ | 第四章 昭和5年の場合(テキ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事