みちのくの山野草

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「賢師は賢治先生から学ぶ」

2019-01-23 14:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 ではここでは、「賢師は賢治先生から学ぶ」という項についてである。
 まず名須川は、
    八重樫賢師は、国民高等学校の聴講生であった。
と述べ、続けて大正15年3月28日付『岩手日報』の記事を転載し、その中に、
 第一回国民高修了者は左の二十二名で他に聴講生二名あった氏名左の如し…(投稿者略)…
 ▲聴講生八重樫堅師、伊藤勇治
          〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)477p〉
とあることを指摘し、「堅師」は賢師のまちがいであると訂正もしていた。
 次に、大正15年10月31日に午後六時半から「花巻朝日座」で行われた「労働農民党稗和支部発会式」についても、大正15年11月2日付『岩手日報』の記事を基にして、
 ・花巻警察署長伊藤儀一郎等が厳重な警戒体制を敷いていた
 ・演説会になると聴衆が加わり凡そ五百名
 ・会は十時に終わった
 ・中央宣伝部長浅沼稲次郎が「労働農民党の使命」という演題の演説を行った
ということなどが述べられていたから、この「発会式」は相当盛り上がったと言えそうだ。つまり、当時の花巻ではやはり労農党の活動が盛んであったということをこれで納得した。なお、この「発会式」に関わっては八重樫賢師の名は見えない。
 では次に、これに続けて述べている次の部分を転載したい。
 この大正一五年一一月より一二月にかけて連続県内遊説により党勢を拡大した結果、「ゴロツキ」「国賊」呼ばわりされていた社会主義・無産運動もいくらか理解されるようになった。
            〈同479p〉
 よって、このことから、当時の社会主義者等は「「ゴロツキ」「国賊」呼ばわりされていた」ということを知ることができる。そういえば、以前〝「牧民会・啄木会と賢治」(前編)〟において触れたように、
 当時はなお社会主義といえば火付けや泥棒の類に考えられていたのだ
ということだったから、さもありなんと思った。それにしても、当時はひどい時代だったのだ。

 なお残念ながら、項目名が「賢師は賢治先生から学ぶ」ということであったのだが、それに沿うような内容は今回の項においては乏しかった。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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