みちのくの山野草

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岩手 藤沢美雄

2020-09-04 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 今回も岩手から寄せられた次のような「追悼」からである。
   泥に立つ
   岩手 藤沢 美雄  
余りにも突然な、余りにも大きい悲しみとくやしさをどうしてよいか腹一ぱいの声で呼びつゞけたい氣もちです。
机の上から〝奉公々々〟と叫びつゞけ勝ちな時勢にあつて、眞なる泥の奉公を泥の中から、教へて下さつた先生の魂は、青田の土に、黄金の稲穂の中に汗して作り、涙して奉ずる絶忠の農民の上に無窮に生き、私たちをむちうつて下さることと信じます。先生は生きてあります。私たちが一□の上に先生を行ずることこそ、先生に対する何よりの合掌だと思ひます。
吾等熱噴奮起昭和維新玉砕の道へ莫馬直進前する覚悟です。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)42p〉

 この追悼においては、私は「眞なる泥の奉公を泥の中から、教へて下さつた先生の魂は、青田の土に、黄金の稲穂の中に汗して作り」という言辞に惹かれた。というのは、やはり、甚次郎は塾生たちと一緒に泥まみれになりながら農産物の増産に邁進したということを示唆していると思えたからだ。しかも実は、賢治と一緒に暮らした千葉恭の息子さんのお一人が、
    (父は、)賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも言っていた。
ということをかつて私に教えてくれた(平成22年12月15日)、ことを思い出したからでもある。
 そして、「先生は生きております」ではなく、「先生は生きてります」という表現からとりわけ、やはり甚次郎は多くの農民から敬慕されていたのだということを私は改めて確信した。

 そこで、松田甚次郎に寄せられたここまでの「追悼」を振り返ってみると、それを寄せた人の多くは農業に携わっている人たちだということに気づく。それに対して甚次郎の師である賢治の追悼集、『宮澤賢治追悼』

〈草野心平編、二郎社、昭和9年1月(ただしこれは「図書刊行会」の復刻版)〉
の目次

をみてみると、追悼を寄せた人物の中にそのような人は菊池信一しか見つからない<*1>。なお、著名人も目立つが、その多くは生前賢治とそれほど懇意ではなかったはずだ。

 端的に言えば、賢治と甚次郎の「追悼集」の目次を見比べてみるだけでも、当時どれだけ農民達のためにそれぞれが貢献していたかということが容易に推断できる。そして、二人の間にはかなりの違いがあったのだという事もだ。

<*1:投稿者註> 消去法で行けば、菊池信一以外には松田奎介も農業に携わっていた可能性もあるが、『宮沢賢治-地人への道-』(佐藤成著)所収の卒業生名簿の中にそのような人物は見つからない。ただし、松田圭助という人物がいる(『宮沢賢治-地人への道-』365p)ので、この人が松田奎介である蓋然性は頗る高い。ところが、松田圭助の職業は盛岡銀行員であるから、結局、こちらの「追悼」に寄せたそのよう人物は菊池信一唯一人であったということになりそうだ。

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《発売予告》  来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))

を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―            森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―      上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―  鈴木 守
の三部作から成る。
             
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