みちのくの山野草

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朝鮮 伊藤重次郎

2020-08-29 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は朝鮮から寄せられた次のような「追悼」である。
   松田先生の逝去を悼む 
   朝鮮京城府 伊藤重次郎 
松田先生が逝かれましたことは全く夢のやうな悲しむべき出来事であります。あの宮澤精神を象徴するあの共働村塾の佛間で静かに先生の御話をお伺した喜び、或は昨年御来鮮の折在鮮の最上會員達の心行く許りの歓喜に充ちた集ひ等皆思ひ出の種となりました。然し今は再びお會する事が出来ず寔に痛惜に堪へません心から御冥福を祈る許りであります。今や先生の教へ児達の方も之の悲しみの涙を拭いて大に奮ひ起つべき秋と存じます。そして先生の尊き土の教へを生かして行く事こそ先生への只一つの御報恩の途と信じます。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)40p〉
 
 さてこの文面からは、伊藤重次郎は「最上共働村塾」に入塾した一人であったと判断できる。そのような伊藤が、「先生の尊き土の教へを生かして行く事こそ先生への只一つの御報恩の途と信じます」と述べているわけだから、甚次郎が塾生に与えた影響は大であり、子弟の繋がりは太くて確かなものだったであろうことが、容易に導かれる。今更ながら、松田甚次郎の偉大さを教わった。

 ところで、先に京城から寄せられた「追悼」を引いたが、この京城とは今のソウルに当たるだろうから、今回のものとを併せると、当時の朝鮮から複数の「追悼」が寄せられていたということになる。そうなると、私にはある不安が生じてくる。それは「最上共働村塾」の「開塾趣意」の中に、
 更に次三男の靑年を滿鮮の曠野に耕作出來る拓殖訓練も授け、強烈なる皇國精神の發動を以つて、農村のどん底の立場や、不景氣、失業苦のない明るい規範の社會を招来するまで務めねばなりません。各々の立場を意識的に分擔し、お互に信じ、共働し、隣保し、以つて日本農村をして、全人類に先驅する正しい皇道日本たらしめねばなりません。
            〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)226p〉
という一文があったことを思いだしたからである。もう少し具体的に言うと、「次三男の靑年を滿鮮の曠野に耕作出來る拓殖訓練も授け」ということが実際になされて、その結果、栴 文楨 や伊藤重次郎は「滿鮮の曠野」に行ったのだったということになるのだろうか、という不安が生じてきたからである。
 というのは、以前私は
 実際に、甚次郎と「寝食労働を共にして修業」した者は「青少年」ではあるが、その中の何割りが「滿鮮の曠野」へ行ったというのだろうか。私にはそのような塾生を見つけることはできなかった。
と述べたが、実はこの二人は「そのような塾生」であり、しかも「在鮮の最上會員達」ということだから、この二人のみならず最上共働村塾出身の人物が当時朝鮮に結構居たということになりそうだ。つまり、この度「そのような塾生」を見つけてしまったようだ。どうやら、私には大きな新たな課題が課せられてしまった。

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