みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「上鍋倉」とは「寶閑小学校」の辺りだった

2015-04-24 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 瓢箪から駒が出た感じだった。でも、また何かが新たに見えてきた気もした。

賢治の詩<秋>に出てくる「上鍋倉」とはどこか
 この4月22日の朝、私はちょっと訳あって賢治の次のような詩<秋>を見ていた。
七四〇      秋                 一九二六、九、二三、
   江釣子森の脚から半里
   荒さんで甘い乱積雲の風の底
   稔った稲や赤い萓穂の波のなか
   そこに鍋倉上組合の
   けらを装った年よりたちが
   けさあつまって待ってゐる

   恐れた歳のとりいれ近く
   わたりの鳥はつぎつぎ渡り
   野ばらの藪のガラスの実から
   風が刻んだりんだうの花
     ……里道は白く一すじわたる……
   やがて幾重の林のはてに
   赤い鳥居昴の塚
   おのおのの田の熟した稲に
   異る百の因子を数へ
   われわれは今日一日をめぐる

   青じろいそばの花から
   蜂が終りの蜜を運べば
   まるめろの香とめぐるい風に
   江釣子森の脚から半里
   雨つぶ落ちる萓野の岸で
   上鍋倉の年よりたちが
   けさ集って待ってゐる
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
私は最後から2行目の「上鍋倉」にたどり着いた瞬間、そして、となった。この詩の中の「上鍋倉」とはどこのことだっ! そして私はおもむろに確信に変わっていった、この「上鍋倉」とはあの辺りのことだと。

それは「寶閑小学校」の辺りのことだった
 そこで私は早速「あの辺り」へ出かけて行った。まっしぐらに『高庄商店』に向かった。そして店に入っていった。すると奥様が現れたので私は訊いた、『この辺りは「上鍋倉」というのですか?』と。すると、『そうは呼ばないが、ここは「上(かみ)」と呼びます』と教えてくださって、続けて、『鍋倉は上、中(なか)、下(しも)と三つに分けて呼ばれているのです』と付け足してくれた。すなわち、この商店のある場所は総称は「鍋倉」だが、その「鍋倉」のうちで、この辺りは俗に「上」と呼んでいるということになる。私の予想どおりであった
 だから賢治は最初の方では「鍋倉上(組合)」と書いていたのか。「上鍋倉」は固有名詞までにはなっていないが、賢治の書いた「上鍋倉」にせよ「鍋倉上」にせよ、いずれしても、現在『高庄商店』のある付近は俗称が『上』であり、賢治はこの辺りのことをこう書いていたのだと私は判断したし、その判断に間違いはなかろう。
 すると私の頭の中にある光景が浮かんできた。大正15年9月23日の朝、この付近で待っている「けらを装った年よりたち」に会おうとしてここに向かって猫背気味に足早に歩く一人の男の姿が。そしておそらく、その男の眼の前にはピラミダルな江釣子森山が迫っていたであろう。
 ちなみに、かつての鍋倉村の地図は次のとおりだ。
《元治元年(1864年)当時の鍋倉村》

              <『寶閑小学校九一年』より>
ご覧のとおり、東西に横長の鍋倉村は、左(西)は山側だから高く右(東)に行くにつれて低くなっていっている。まさに「上、中、下」に分けて呼ばれるような地形だ。そして、この『高庄商店』のある場所はこの地図のどの辺りかというと、拡大した次の地図
《上図一部拡大》

のほぼ中央にある「宝閑(ただし門構えは略記されている)」と書いてある場所だ。ちなみに、現在でいえば次の地図の「文2」の直ぐ西の十字路付近だ。
【現在の周辺地図】

             <二万五千分の一の地形図『花巻』(国土地理院発行、平成20年発行)から抜粋>
あるいは、次の地図でいえば、数字〝138〟が記されている西隣の十字路付近だ。
【当時の周辺地図】

             <五万分の一地形図『花巻』(昭和22年発行、地理調査所)から抜粋>
そしてこの地図のその数字〝138〟の下にある学校のマーク〝文〟があるが、まさにこの学校こそ当時高瀬露が勤務していた寶閑小学校である。つまり、
    「上鍋倉」とは当時高瀬露が勤めていた「寶閑小学校」があった辺りだった。
ということが新たにわかったのだった。

込められた賢治の想い
 そして続いて私の頭の中に浮かんできたのが、そうか、〔同心町の夜あけがた〕の中の「字下げ」した連
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である

の中の、「向ふの坂の下り口」と全く同じ構図だ、という連想だった。乱暴な図式化をすると、
     〈〔同心町の夜あけがた〕〉:「向ふの坂の下り口」=〈〉:「上鍋倉
ということであり、「向ふの坂の下り口」 とは露の生家があった場所であり、「上鍋倉」とは露が勤めていた学校があった場所だ。当時、露は西野中の高橋重太郎の家に下宿していたから、この大正15年9月23日は木曜日なのでもちろん露はこの時たしかに「上鍋倉」に居たはずだ。
 そして同時に私はもう一つ思い出したことがある。折しも9月23日ならば、詩のタイトルがまさにそうであるように季節は「」であるが、その「」に関連する次の証言をだ。
 「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表われているのが感じられた」
                       <『七尾論叢11号』所収「「宮澤賢治伝」の再検証(二)(上田哲著)」10pより>
という、下根子桜を訪ねていた期間を直接高瀬露から聞いたという菊池映一氏の証言だ。そう、ちょうどこの年のこの秋頃から賢治と露はつきあい始めていたという証言だ。しかも、そういえば、賢治が講演のために行った学校といえば、実際に取り上げられている学校はなぜか殆ど寶閑小学校ばかりなはずだ<*1>。
 となれば、賢治は「向ふの坂の下り口」に特別の想い入れがあったという可能性が高いのと同じように、賢治はまた「上鍋倉」にも特別の想い入れがあったのでそれを詩に詠み込んだ可能性がある、と類推することはそれほど荒唐無稽でもなかろう。

 どうやら、これらのいずれの詩の場合にも、賢治は高瀬露のことを相当意識して「向ふの坂の下り口」と「上鍋倉」をそれぞれの詩に詠み込んだ可能性が極めて高いと言えるのではなかろうか。そこには込められた賢治の想いがある、とも。そして私は、「やっぱりな」とつぶやいた。

<*1:註> 例えば、
 鍋倉に百四十五名の生徒がゐる寶閑小學校といふのがあります。
 早春まだ雪の消えない頃、そこへ村の人達が集つて賢治の農事講演会を聽きました。農村では宮澤先生と云へば非常に評判が良いので忽ち人が集まります。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)6pより>
 あるいは、
 その頃(大正一三、四年)は農会主催の講習がよくありました。各種の比較試作もさかんに行われていました。
 宮澤先生は、その農會の依賴で、寶閑小學校へおいでになったのでしょう。肥料設計についてお話しをされました。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)275pより>
などがあり、私の管見故か、似たようなもので他の学校名のものは浮かんでこない。

 続きへ
前へ 

 “『大正15年の宮澤賢治』の目次”に移る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
                        【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】

 その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 裏山の残りの報告(4/19) | トップ | 江釣子森山(4/22) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事