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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
5 「宮澤先生を追ひて」より
ではここからは、『四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見ていきたい。
賢治と出会う前までの千葉恭
まずはその初回が載っている『四次元4号』から見てみよう。そこで千葉恭は次のように述べている。
現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の今の心であり實行であるのです。私が先生と知り合つたのは大正十三年秋、私がまだ十九歳の大人の世界に立ち入る境で、大人の世界に入る試験期といつた境でした。…(中略)…
その年もいよいよ秋となりみちのくの山國にも、水田には黄金の波うち、小さい風にもキンキンと音をしてたなびいてゐました。それは大正十三年の秋でした。百姓達は経営経済上田から穫った稲を調整して、商人を相手に現金と交換する時、生産者と商人の取引に正確な格付けをするのが私達の仕事でした。(出荷する米に等級を決定する検査)そろそろ忙しくなりかけてきた十一月十二日、秋としては珍しいほどよく晴れた日でした。
<『四次元4号』(宮澤賢治友の会)>
聞くところによると、食管法(食糧管理法)は昭和17年に制定されたということだから、この当時(大正13年頃)はもちろんまだ食管法などというような制度はなかった。そこで、農家は米相場を睨みながら自分の判断で俵米を売っていたことになる。だからもし判断を誤ると悲劇が起こる。例えば、どうせ秋になれば自分の田圃から米は穫れるのだから米貨が高い時点で手持ち米を売ってしまえということもあったであろう。ところがその年の秋、当てにしていた米が凶作で穫れないということになると、なんと農家なのに米を購入しなければならないという悲劇が起こる。
話が少し横道にそれてしまったので元に戻そう。いずれ、自分の田圃から収穫したお米の出来が如何ほどのものであるかは農家にとっては最大の関心事なわけで、千葉恭はその等級付けの仕事をしていたわけである。
出会い後の千葉恭と賢治
この千葉恭の回想では次に例の「米の等級検査のエピソード」が続くのだが、それは以前触れたことなのでここでは割愛する。さらにその後には、翌々日のエピーソードが次のように語られている。
「先日は失禮致しました私は宮澤と云うものですが、あなたに是非お會ひいたしたいのですが、今農學校の宿直室にをりますからお出でいたゞけませんでせうか」と、電話を切つたのですが、何せ知らぬ他人のところに來いと言はれても何となく行くのがおつくうでしたが、さうかといつて行かねば申譯ないやうな氣がされたし、また會ひたい様にも考へられたので、秋の晴れた月の夜を散歩がてら出かけて見ることにしました。…(略)…。
「實はあのとき私は等級を附けて貰ひましたが、何だかその時は、一生懸命になつて作つたものを臺なしにされた様に思はれたのですが、學校に帰つてからちよくちよく考へて見ましたが、やつぱりあなたが付けた等級に間違ひないことを知り感心して了ひました」…(略)…
最後に私が考へた結論として、やつぱり稲作其他農事に就ては深く研究してゐる靑年教師だなと斷定したのでした。其後二、三日位に一囘の電話があり、學校に訪ねたり、家庭に訪ねて行つたりして、農事に関する種々の問題を質問して、私としては私の好きな農事の大先生を見出したやうな氣がされて本當に嬉しかったのでした。
<『四次元4号』(宮澤賢治友の会)>
ということから千葉恭は賢治を〝農事の大先生〟として尊敬し、出会えたことを素直に喜んでいることが判る。そして、2、3日に一回の割合で二人は直接会って農事問題を熱く語り合ったであろうことも窺える。
とはいえ、この「宮澤先生を追ひて」における千葉恭の賢治に対する心情と以前触れた「羅須地人協会時代の賢治」におけるそれとでは微妙な違いがあると私は感じ取ってしまった。この「宮澤先生を追ひて」は昭和25年に書かれたもの、一方の「羅須地人協会時代の賢治」は昭和29年に語られたものであるようだから、もしかするとその時間的な流れの間に彼の賢治に対する心情や評価が少しずつ変化していったということなのかもしれない、と。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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