みちのくの山野草

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バイアスがかかりすぎ

2018-11-15 10:00:00 | 蟷螂の斧ではありますが
《自分から仰向けになった「褐色のカマキリ》(平成30年11月2日撮影、イギリス海岸)

荒木
 さて、では今度はどんな「断定」だ。
鈴木
 ええと、今度は
 当時の農村は農業恐慌と冷害による凶作とで窮乏し、農民は希望のない灰色の労働に疲れていました。賢治をして農村指導の実践に立ち向かわせたのは、こうした農村のみじめな現実への関心であり、農民の愛情でしたが、賢治の献身的な奉仕活動は、必ずしも周囲の人々に十分に理解されたわけではありません。(65p)
という「断定」だ。ただし、今回の文章に関しては、私もその断定には納得できる部分もある。つまり、たしかに裏付けられるところもある。
荒木
 それはどんなところだ。
鈴木
 それは、
   ・当時の農村は農業恐慌で窮乏し
とか、
   ・賢治の奉仕活動は、必ずしも周囲の人々に十分に理解されたわけではありません
の部分などはその断定どおりだろう。
荒木
 えっ、ということは、「冷害による凶作で」はどうなるんだ。
吉田
 鈴木はこう言いたいのだろう。
   当時の農村は農業恐慌と凶作とで窮乏し
とは言えるが、
   当時の農村は農業恐慌と冷害による凶作とで窮乏し
とは言えない、と。
鈴木
 そう、吉田の言うとおり。
 当時、少なくとも東北の場合には、「冷害による凶作」は基本的にはなかった<*1>という。ちなみに、卜藏建治氏が『ヤマセと冷害』(成山堂書店)の15pで指摘したりしているのだが、
 大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、昭和6年の冷害までの期間に冷害らしいものはなく、いわば「冷害空白時代」であったといえる。ただしその代わり、干害は何度も起こっている。
のだそうだ。
 のみならず、『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によれば具体的には以下の通りであり、
 《大正2年~昭和9年の間の冷害と干害発生年》
 大正 2(1913)年冷害(66)
 大正 5(1916)年干害
 大正13(1924)年干害
 大正15(1926)年干害
 昭和 3(1928)年干害
 昭和 4(1929)年干害
 昭和 6(1931)年冷害
 昭和 7(1932)年干害
 昭和 8(1933)年干害
 昭和 9(1934)年冷害(44)
<注:( )内は作況指数で、80未満の場合の数値>
というのだ。
 しかも、昭和6年は岩手県全体では冷害だったのだが、稗貫郡だけは平年作以上だった
 ということは結局、賢治は身近に冷害を経験していなかったと判断せざるを得ない。
荒木
 でも、大正2年は冷害によってかなりの凶作だったのだろう。だから、賢治はこの時の冷害を経験していたのではないのか。
吉田
 大正2年とえば、賢治は盛岡中学の5年生で17歳。舎監排訴のあおりで退寮させられて盛岡市のお寺に下宿していた頃だから、身近に冷害を体験したとは言えないだろう。
荒木
 そっか。賢治は冷害による凶作については実質的に体験していなかったということになるのか。
吉田
 逆に、賢治は旱害による凶作についてならば身近に経験していると言える。 
鈴木
 そしてその典型が、大正15年の旱害による大凶作だ。その惨状の詳細等についてはもう聞き飽きただろうから私はここでは繰り返さないが、隣の郡内の赤石村や不動村、そして志和村等はこの時の大旱害による大凶作で窮乏していた。だから、陸続として赤石村などにへあちこちから救援の手が差し伸べられていた。
荒木
 ならば、まさに賢治は「こうした農村のみじめな現実への関心」から、この大旱害の際に「献身的な奉仕活動」をしたはずだが……
鈴木
 なっ、そう思うだろ。ところが不思議なことに賢治がそのような救援活動をしたという証言も資料も一切ない。
吉田
 それどころか、賢治は地元のそのような惨状を気にもかけずにその年末には約一ヶ月上京していたし、花巻に戻ってからも、賢治たち協会員は、
 協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりしたとはどうも言い難い。それは伊藤等協会員はそのようなことに関しては一言も触れていないからだ。しかも、もし当時の賢治がそのために徹宵東奔西走していたとすれば、それは農聖とも云われている賢治にまさにふさわしい献身だから、当然そのような献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだがいくら探してみても、残念ながらそのような証言等を誰一人として残していないからだ。のみならず、「下根子桜」に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない(昭和2年4月1日付〔一昨年四月来たときは〕の中に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」が唯一見つかるが、「一昨年」とは大正15年ではなくて14年だ。しかも同年の岩手は豊作だったので「恐ろしい旱魃」とは言えない)。
 つまるところ、大正15年の「ヒデリ」による、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害に対して、賢治が救援活動等をしたという証言も、その大旱害の惨状を気に懸けていたということを示唆する詩篇も何一つ見つからないということであり、先ほどの
  〈仮説3〉大正15年の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
は、米の作柄や「樂しい集りの日」の実態等を知ったことによってさらにその妥当性が裏付けられた。そしてもちろん、この仮説に対する反例は今のところ見つかっていないから、検証ができたということになり、〈仮説3〉は今後この反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となる。
 どうやら、この当時の賢治も羅須地人協会もそしてその活動も、地域社会とはあまりリンクしていなかったという、思いもよらぬ結論を導かざるを得なくなってしまった(当然、この時の無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていき、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうかということを、私は今考えている)。
             〈『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版社)49~50p〉
ということで、鈴木は憤っているわけだ。 
鈴木 
 おお、そうよ。憤っているわけではないが、私がかつて抱いていた賢治像からすれば、こんな時は真っ先にそこへ飛び込んで行っていたはずだ、と思いたくなるじゃないか。ところが、その実態は真逆じゃないか。東京の小学生でさえもこの惨状を知って、
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
ということだったのだから。泣けてくるよ。  
吉田
 まあまあ、そんなに悲憤するな。そんな賢治もまた賢治なのだと受け止めればいいだけの話だ。それこそ、鈴木が、『実は賢治は聖人・君子などではなかった』としばしば言っているとおりであり、この時に何ら手を差し伸べなかったということがその証左だということだよ。

荒木
 あっ、わがった。
吉田
 なんだよ、突然でっかい声を出したりして。
荒木
 だからさっき鈴木は、もともとの当該部分は
   賢治の献身的な奉仕活動は
だったはずなのに、
   賢治の奉仕活動は
としたわけか。
吉田
 なるほど、この時の大旱害の際には、小学生でさえもお小遣いを義捐しているというのに、あの賢治が何一つ救援活動すらしていなかったから、その腹いせとして「献身的」を削除した、ということか。
荒木
 そっか、可愛さ余って憎さ百倍か。
鈴木
 いやいや滅相もない………そうではなくて、今回皆さんに訴えたかったことは、
   当時冷害による凶作はありませんよ。
ということと、
   賢治は「献身的な奉仕活動」をすべき時にしなかった時がありますよ。
ということです。
 そして不思議なことに、賢治研究家の誰一人として、「この時の隣の紫波郡内の赤石村や不動村、そして志和村の大旱害と賢治」について公に言及してる人がいない、ということです。
荒木
 要するに、賢治研究者の皆さんバイアスがかかりすぎですよ、と鈴木は言いたいのか。
吉田
 そして、賢治にとって不都合なことでも、明らかにしたり追究したりせねばなりませんよ、と鈴木は責めているのだ。
鈴木
 またまた。責めているなんて、私如きにそんなことができる資格も立場にもない。

<*1:註> 卜藏氏によれば、
 東北地方では一九一四年(大正三年)から一九三〇年(昭和五年)までの一七年間は夏季の低温による減収(冷害)はなく           〈『ヤマセと冷害』(卜藏建治著、成山堂書店)56p〉

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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