みちのくの山野草

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谷川徹三の『自伝抄』より

2021-05-06 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 谷川徹三の『自伝抄』(中央公論社)を入手した。少しだけ谷川自身のことや、実は彼は「雨ニモマケズ」をどう評価していったのだろうかということを知りたかったからだ。
 そう、昭和19年9月20日に東京女子大学で講演「今日の心がまえ」を行った谷川は、
    この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています。
とか、
    その精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らないのであります。
というように「雨ニモマケズ」をべた褒めしたと言えるのだが、終生そう評価していたのかなどということを知りたかったからだ。

 同書所収の「私の履歴書」によれば、谷川は、
 昭和3年4月32歳で法政大学法文学部哲学科の教授になった。(60p)
 昭和4年4月の『思想』に「マルクス主義文学理論の一批判――政治的価値と芸術的価値との対立を中心として――」を書く。多くの反批判をうける。(61p)
 (年次は不明だが戦時中)「思想懇談会」のメンバーとなり、幹事役を務める。(72p)
ということなどを知った。
 だが一方で、『自伝抄』(中央公論社)の中では、谷川徹三は「昭和19年6月17日」のことや「同年12月29日」のことには言及していても、「昭和19年9月20日」のこと、つまりこの講演「今日の心がまえ」については一切触れていなかった。
 また、よく知られているように、谷川と中村稔との間にいわゆる「雨ニモマケズ」論争が1960年代にあった(ちなみに1970年(昭和45年)発行の『宮澤賢治の世界』においては同書の中の「われはこれ塔建つるもの」でこの論争について谷川は語っている)わけだが、この1992年(平成4年)発行の『自伝抄』の中にはその言及は見つけられなかった。

 ということは、谷川は晩年になるとあそこまでは賢治をべた褒めしたいとは思わなくなったからなのだろうか。あるいは、戦意昂揚に「雨ニモマケズ」を利用したことを恥じるようになったということもあったからなのだろうか。そして、同書には徳冨蘆花・土井晩翠・北原白秋・石川啄木・二葉亭四迷・夏目漱石・島崎藤村(24p)、有島武郎(38p)、志賀直哉(39p)、斎藤茂吉や萩原朔太郎(42p)などの名前は登場しているのに、宮澤賢治の「ミ」も、「雨ニモマケズ」の「ア」も一切見つからないということは、そのことの証左なのだろうか。

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