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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
4 結論
さて長かった「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅もそろそろ終わりを迎える。
○◇仮説「♣」について
幸い、定立した仮説「♣」についてはさしたる反例も見つからず検証に耐え得ることができたし、一方では「○澤」及び「○柳」という強力な証言等もあることから、この仮説は歴史的事実であり、真実であろうことがほぼ明らかになったと私はいま確信している。
○◇「通説○現」について
よって、宮澤賢治大正15年12月2日の現通説は
セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 …………「通説○現」
となってはいるが、賢治がこのようにして澤里一人に見送られて上京したのはこの日ではなくて、実はその約一年後のことであるとならざるを得ない。
そして、宮澤賢治の大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて
一二月二日(木) 上京する賢治を柳原や澤里が見送った。
ということだけであろうし、この時に賢治がチェロを持って上京したということもない、というのが私見である。
○◇「現賢治年譜」の長すぎる空白について
一方、あまりにも長すぎる「現賢治年譜」における「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の空白の真相は
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。 ………………♧
であり、この「3ヶ月弱の滞京」によってこの空白期間の大部分を埋めることができるというのが私の辿り着いた結論の一つである。
○◇「不都合な真実」「♧」について
一方で、この「♧」という「真実」は「不都合な真実」なので「宮澤賢治年譜」から抹消してしまいたいと思った一部の人達がおり、実際それが為されたのではなかろうかという危惧があることを私は問題提起をせざるを得ない。
がしかし、それはおそらく私だけの「危惧」であり、この一部の人達の行為が実際あったはずがないという想いも私には強い。とはいえ、現実に次のような三つの事実が残っているということに鑑みればやはりそのような行為があったかもしれないという不安を私は拭い去ることもまたできない。
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
・理に適わない理由をかたって『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
私は、これらのこととどう折り合いを付ければいいのこれから暫くは悩みが続きそうだ。だからおそらく、先に述べた「リトマス試験紙」は当分私の頭の中の引き出しに仕舞ったままとなるかもしれない。
○◇澤里・柳原の苦悩について
最後に、先に第二章の「1」で
柳原は証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いな
い。しかし、実は柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、…
と述べたことに関してである。
ここまでを振り返ってみれば、『宮澤賢治物語』が何者かによって改竄されたそのあおりで、当の澤里武治、そして同級生の柳原昌悦はいわれない苦悩をさせられたに違いないであろうことが私にはひしひしと感じられる。
以前澤里武治の実家を訪れた際に、長男の裕氏が見せてくださった新聞連載版『宮澤賢治物語』を貼ったスクラップブックと、単行本『宮澤賢治物語』を思い出しながら私は次のように推察する。
賢治をひたすら崇敬している澤里武治のことだから、『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語』をスクラップブックに貼りながら、おそらく食い入るように読んでいたと思う。そしてそれが単行本『宮澤賢治物語』として出版された際には、いち早くそれを購入して恩師のことを思い出しながら読み始めたと思う。
そして愕然としたに違いない。自分の証言が改竄されていたことに気付いたからだ。もし私が澤里ならば、この改竄はおそらく関登久也によってなされたと疑ってしまうような事態だから、澤里は知れず悩んだに違いない。
一方で、澤里の証言が正しく使われずに定着してしまった「通
説○現」に対しては、柳原昌悦も苦悩したと思う。もし私が柳原
ならば、それは澤里が嘘の証言をしているからだと恨みがましく思うような事態になったしまったからだ。
かくのごとく、『宮澤賢治物語』を改竄した何者かのせいで不条理な苦悩を味わわされたであろう澤里であり、柳原である。そしてこの改竄行為を知り、さらには道理に合わないとしか私には思えない『賢治随聞』の出版を知って、関登久也も天国でさぞかし嘆息し、憤ったに違いない。この三人は誰一人、何一つ悪いところはないのに、理不尽な苦悩をさせられたことに私は同情を禁じ得ない。
だからもちろん、柳原は証言「○柳」を公にすることを憚る必
要は全くなかったのである。関登久也が改竄した訳でもないし、澤里武治が嘘を言っていた訳でもないからである。
さぞかし天国の賢治は、なぜ私の愛弟子澤里や柳原、そして同信の関をこれほどまでに悩ませ苦しめたのかと、改竄等に関わった人達のことを苦々しく思い、嘆き悲しんでいると思う。
‡
なお、次頁に現在の「宮澤賢治年譜」と私見のそれとを比較するための【表9 現及び私見・宮澤賢治年譜の比較】を作成してみた。
‡‡
さてこれでやっと長旅はゴールを迎えた。いままでのこの「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅を振り返ってみれば、途中ですごすごと引き返すこともなく無事にここまで辿り着けたことが素直に嬉しい。その上、幾つかのことが明らかになったり、新たに見え始めたものもあったりして、今までよりは「羅須地人協会の真実」がまた少し解ってきたような気がする。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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