〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)
思考実験「悪女にされた切っ掛け」
鈴木 その後、私は賢治研究家B氏から、
「伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった」と宮澤清六が直接私(B氏)に証言した。
ということを教えてもらった(平成27年9月20日、花巻F館にて)。吉田 へえそうだったんだ。その時期については、以前であればあまりはっきりしたいなかったはずだ。ところが、その時期は昭和3年の春であるという説が最近独り歩きし始めている<*1>ことを僕は危ぶんでいたのだが、やはりその心配どおりだったのか。
しかしこれで、例のちゑの藤原嘉藤治宛書簡<*2>の記述、
昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で
によれば、 その見合いの時期は昭和三年六月十三日より前の「秋」、つまり、昭和二年の「秋」以前のことであった。
となることとこの静六の証言とを併せて考えれば、伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ断定できることになった。
荒木 そっか、「その時期は昭和3年の春である」ということを、清六の証言もちゑの証言も共にに否定していることになるからな。
鈴木 そしてまた、先に引用したように、
(賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p >と高瀬露が遠野時代の同僚に証言しているのだが、奇しくもその「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後にこの見合いがあったということも教えてくれる。
荒木 あっ、そういうことな。この露の「遠慮するようにしました」は、ちゑとの見合いと密接に関連していたのだ、きっと。
鈴木 そう、その通りだろう。だから、この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持っているんだ。
そこで話は飛ぶのだが、先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、賢治研究家M氏からその後、
露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうね。
と問われた。
荒木 それでお前は何と答えたのだ。
鈴木 拙論で検証したみたところでは、露が〈悪女〉であるという客観的な根拠は何一つ見つからないから彼女は巷間言われているような〈悪女〉では決してなく、それどころかどちらかといえば聖女の如き人だったということを同拙論で実証できた。しかしながら、現実には巷間とんでもない〈悪女〉にされていているわけだからその「理由」は必ずあるはずだ。がしかし、私はそれは見出せていなかったので、その問いに対して、
その点に関してはわかりませんでした。
とお答えするしかなかった。
吉田 実際、この点に関しては誰一人として公には言及していない。
鈴木 そして実は私は、そこに踏み入るつもりはそれまではあまりなかった。露が巷間言われているような〈悪女〉でないということは、ある程度賢治と露のことを識ってしまえば常識的に明らかなことだったからそれを仮説として、その検証をし、できれば実証したいという一心だったからだ。
荒木 しかしそれをやり遂げた今、その「理由」を賢治研究家から問われて「わかりません」ということでは、ちょっと無責任だと誹られるかもしれんぞ。
鈴木 だから私も反省した。そして、少なくとも拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上は、その点に関しての私見を一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えていた。
そんな時にたまたま教えてもらったのが上述の清六の証言だが、そのことを知ってあることに気付かせてもらった。それは、先に引用したように、
露が「下根子桜」に賢治を訪ねていたのは昭和2年の夏までであった。
ということと、
伊藤ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのはほぼ昭和2年10月であると言える。
ということの時間的な推移から示唆されることだ。
吉田 だからか、さっき鈴木が「この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持っているんだ」と言ったのは。
鈴木 そういうこと。では、ここからは思考実験に切り替えたい。ちょっと長くなるがしばし聞いてくれ。
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巷間、賢治は高瀬露を拒絶するために幾つかの奇矯な言動<*3>をしていたと云われている。しかも、昭和2年10月に見合いのためにちゑが花巻を訪れたとなれば、それ以前に見合いの話は既に進んでいたと考えられる。すると、この時間的な流れはあまりにもタイミングが合いすぎているので、普通に考えて、 昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合い話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するためにあのような奇矯な言動をするようになった。
ということの蓋然性が高い。ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
私は(伊藤ちゑさんと)結婚するかも知れません――
とほのめかし、ちゑのことを ずつと前に私と話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)104p~>と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを当時真剣に考えていたと判断できそうだし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言えそうだ。
ちょうどその頃のちゑは、二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていて、まるで聖女の如き女性であり、しかもモダーンでかなりの美人でもあったということだから、東京に住むそのようなちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もないとも考えられる。
一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合いのために花巻に一度は行ったものの、先に、「伊藤ちゑから見た賢治」において明らかにしたように、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になってやっと初めて覚ったと考えられる(まさに昭和6年10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒)。
とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為等を恥じ、昭和7年に露に詫びに行ったようで、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという。このことについては、露の遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人K氏から教わった(平成26年7月14日、遠野市)ことであり、彼は、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると語っていた。(これらの詳細については拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい)。
またもちろん、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったとしても、賢治は露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共になかろう。それは、賢治は露とは少なくともある一定期間オープンでとてもよい関係にあったし、なにしろ賢治は露からいろいろと世話になっていたからである。だからそうではなくて、賢治周辺の誰かが、賢治のために良かれと思って露を〈悪女〉に仕立てたのだろうが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めてしまったという、到底許されざる行為があったということなのだろう。
おそらくその「誰か」が、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像にはそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。
あるいは、父政次郎からも厳しく叱責されたという賢治のその幾つかの奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない〈悪女〉に仕立てるしかなかったのである。だから、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で露は犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪だ。
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以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない〈悪女〉にされたのかの切っ掛けの説明がつく。言い換えれば、有力な次のような仮説〝○☆〟がここに立てられる。 高瀬露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」は伊藤ちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。……○☆
とはいえ、この仮説の実証は容易ではない。このことを裏付けてくれそうな証言も資料もまず思い付かないからだ。ただし一つだけその方法論として私が思い付くのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとかたって『校本全集第14巻』が公にした、一連の「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」があるが、これに対応する「賢治宛の露からの来簡」が実在しているというのであればそれを用いる方法である。ところで、同巻はその「新発見」の際に、
本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
と34pで述べているが、残念ながらそこにはその根拠も理由も明示されていないから私だけのみならず、一般読者にとっても全く判然としていない。さりながら、それらが全くなくてそう嘯いて活字にするようなことを『校本全集』がするわけがないはずだから、そこには何らかの典拠があってのこと。
というのは以前、賢治が「下根子桜」で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについて、どうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
すると私に考えられることは唯一、前述したような「賢治宛の露からの来簡」が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したということである。
もしそうであったとしたならば、先の仮説〝○☆〟の検証のためのみならず、こちらの「判然としている」の根拠という観点からも「賢治宛の露からの来簡」の果たす役割は大きいと言える。
そして実際、賢治血縁のある方が、公の場で私の質問に対して、
来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
と答えてくれた。となればその存在や如何に?
荒木 話は大分飛躍してしまったような気がするが、ここで最期に確認しておきたいことは、
高瀬露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」は伊藤ちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。……○☆
ということが、否定しきれないということだろ。吉田 どうやら、そういうことになりそうだな。
<*1:註> 伊藤ちゑと賢治との見合いの時期に関しては以下のようなことがそれぞれ述べられている。
(1) 『新校本年譜』には昭和3年6月12日の付記として、その典拠は示しさずに、
伊藤兄妹は以前(年月日は判明していないが羅須地人協会をはじめてからのことで、あるいはこの年の春ではないかと思われる)賢治を訪ねたことがあり、兄は大島で開校したい農芸学校や土壌などの助言・調査を依頼し、妹の方は賢治との見合いの意味があった。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)、372p>というような記載となっていて、その見合いの時期について「この年の春ではないかと思われる」という記載がある。つまり『新校本年譜』は、伊藤七雄・ちゑの兄妹が見合いのために花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」ではないかと思われると記載していることになる。
(2) 賢治伝記の研究家として評価の高い境忠一も、典拠も明示することなしに、
賢治が当時東京にいた伊藤七雄、ちゑ兄妹の訪問を受けたのは、昭和三年の春であるから、
〈『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)、163p〉と断定している。
(3) 澤村修治氏もこれまた何を典拠にしているか明示せずに、この見合いの時期については、
一九二八(昭和三)年春のことである。伊藤七雄が妹チヱを伴って花巻の賢治を訪ねてきた。
〈『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)、165p〉というように同様な断定をしている。
<*3:註> 以下の、10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡(抜粋)、
秋晴れの良いお日和が続きます。先日は失礼申し上げました その後御家族ご一同様には御変わりも御座居ませんか 謹んで御伺ひ申し上げます
宮澤さんの御本、色々とありがたう存じました 厚く厚く御礼申し上げます
又、お願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいまたしやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。…(略)…宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます能…(略)…御残しなつた□□の心象詩の一行にも当らぬ程の途上の一瞬の関心を 御永眠後世に発表遊ばしたら きつとあの優しいお目を きらりとおさせになつて 止めてくれと仰言ると存じられます 私宛のものでしたら私だけ読ませて頂いて終いひにさせて下さいませ こんな事を申し上げるのもお恥ずかしいのですけれど 私事は仰臥天井を眺めて病床に五年も居りますのに まだ尚も凡悩迷低その上□□の代者で御座居ますので 立派なあの方の御本のどの頁にも 私如き者の名を入れて汚したく御座居ません能 考へれば考へます程とてもつらくなつてしまひます どうぞどうそお判り下さいませ あのお方が御生前ふれ合ふ凡ての人々に対して惜しみなくあたへられた あの親しい眞実な微笑みと底なしの友情は 遠くの方から少し私も分けて頂き 残る半生をつつましく迎へたいと存じております。…(略)…御多忙の中を誠におそれ入りますけれど 花巻の御宅へどうぞよろしくおとりなし下さいませ どんな御手紙を御残し下さいましたか 謹んで拝見させて頂きます …(略)…少し遅れましたが 見事な果物本当に本当にありがたう御座居ました 美味しくみんなで頂きました だんだんお寒くなります折から どうぞみな様御風邪など御召し遊ばしませぬやう 末筆で大変おそれ入りますが 奥様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませとあり、「昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で」
によれば、宮澤さんの御本、色々とありがたう存じました 厚く厚く御礼申し上げます
又、お願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいまたしやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。…(略)…宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます能…(略)…御残しなつた□□の心象詩の一行にも当らぬ程の途上の一瞬の関心を 御永眠後世に発表遊ばしたら きつとあの優しいお目を きらりとおさせになつて 止めてくれと仰言ると存じられます 私宛のものでしたら私だけ読ませて頂いて終いひにさせて下さいませ こんな事を申し上げるのもお恥ずかしいのですけれど 私事は仰臥天井を眺めて病床に五年も居りますのに まだ尚も凡悩迷低その上□□の代者で御座居ますので 立派なあの方の御本のどの頁にも 私如き者の名を入れて汚したく御座居ません能 考へれば考へます程とてもつらくなつてしまひます どうぞどうそお判り下さいませ あのお方が御生前ふれ合ふ凡ての人々に対して惜しみなくあたへられた あの親しい眞実な微笑みと底なしの友情は 遠くの方から少し私も分けて頂き 残る半生をつつましく迎へたいと存じております。…(略)…御多忙の中を誠におそれ入りますけれど 花巻の御宅へどうぞよろしくおとりなし下さいませ どんな御手紙を御残し下さいましたか 謹んで拝見させて頂きます …(略)…少し遅れましたが 見事な果物本当に本当にありがたう御座居ました 美味しくみんなで頂きました だんだんお寒くなります折から どうぞみな様御風邪など御召し遊ばしませぬやう 末筆で大変おそれ入りますが 奥様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませとあり、「昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で」
その見合いの時期は昭和三年六月十三日より前の秋のことであった。
となる。
なお、上掲書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものである。
<*2:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房)162p>御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<*3:註> 当時の賢治は、
・「本日不在」の札を門口に貼った。
・顔に灰を塗って露と会った。
・押し入れに隠れていた。
・私はレプラ(癩病)ですと露に言った。
などというような奇矯な言動があったと言われている。
ちなみに、これらに関する資料としては、
(1) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦勞された。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つてゐた。…(略)…
C 何時だつたか先生のところへ行つた時、女の人が一人ゐたので、「先生がをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生がでて來られた時は驚いた。女が來たのでかくれたゐたのだらう。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版)255p~より>C 何時だつたか先生のところへ行つた時、女の人が一人ゐたので、「先生がをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生がでて來られた時は驚いた。女が來たのでかくれたゐたのだらう。
(2) 高橋慶吾の講演「賢治先生」
先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
<『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會)4pより>(3) 佐藤隆房の「女人」
當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顔に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何等の期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞しました。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)175p~より>(4) 関登久也の「女人」
或る女の人が賢治を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れました。最初のうちは賢治も仲々しつかりした人だ、といつて居りましたが、段々女の人が大變な熱をかけてくるので随分困つてしまつたやうです。「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐたのですが……
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)190p~より>などが知られている。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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