ご心配をお掛けして申し訳ございません。
最近私が新たな投稿をしていないことを案じられておられる方がいらっしゃるということを、この度ある方から教わったのですが、私はいたって相変わらず元気です。体調を崩しているわけではございません。
私がここのところ投稿していない理由はただ一つ、以下のような抗議の意味を込めて中止しているだけです。
そのうち、私も再開したいとは思っております。
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それは過日(平成27年10月11日)、私は盛岡のとある会合で宮澤賢治の血縁のA氏と同席できた。私は小心者であるが、一世一代の勇気を振り絞ってずばりお願いをした。
賢治宛来簡はないわけではなかった。今でもある。
といういことがこれで100%確かなものとなったからである。
ついては、奇しくも来年は賢治生誕120年であり、そのためのイベントも行われるということだからそのメインイベントの一つとして、まずは手始めに、この柳原からの来簡を是非公開していただきたい。聞くところによると、現在『宮沢賢治記念館』が所蔵しているという賢治が書いた手紙の本物は、それこそ賢治が柳原に宛てたいわゆる「最後の手紙」が唯一だという。だからなおさらに、
なお、私はこのことを広く訴えたいので、この投稿がいつもこのブログのトップにある状態にしておくために、しばらく投稿は封印することとした。
<*1:註> それが露宛であることの確たる裏付けも示さず、また検証もせぬままに、「高瀬あてであることが判然としている」書簡下書が新たに発見されたと嘯いて『校本宮澤賢治全集第十四巻』がそのことを活字にしたという理不尽により、それまでは実名が明らかでなかった捏造された<悪女伝説>が<高瀬露悪女伝説>にすり替わって、一瀉千里に全国に流布することはある意味当然の帰結であったであろう。
ではその捏造された<露悪女伝説>を流布させてしまった過半の責任はどこにあるか。私は勇気を奮って次のように正直にはっきりと言う。それは、森の「昭和六年七月七日の日記」にもあると考えられるが、少なくとも<悪女>の名は実名にしていないから救いがあるのでそうではなくて、露の帰天を待って前述したような「理不尽」を行った『同十四巻』にあると言わざるを得ない。実名を公表する以上、同巻は為すべき検証等をせねばならなかったのにそれらを殆ど為していなかったということが拙論「聖女の如き高瀬露」(『宮澤賢治と高瀬露』所収)で明らかになったはずだからだ。
しかし、実は全くそうではなかったのかもしれない。なぜならば、件の書簡が「高瀬あてであることが判然としている」と『校本全集』が断定するからには、その典拠がないわけがないからだ。というのは以前、賢治が下根子桜で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについてどうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
すると考えられることは唯一、対応する賢治宛の露からの来簡が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したのかもしれないということだ。もしそうだったとすればこの拙論は呆気なく破綻することがあるかもしれない。だが、それで真実が明らかになるのであれば私は潔く兜を脱ぐ。ただし、そのような来簡があるというのであれば、要らぬ誤解を生まぬように同巻は初めっからそのことを明示しておくべきだった。なおもちろん、それもこれも、対応する賢治宛の露からの来簡が存在していればの仮定の話にすぎないのだが。
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最近私が新たな投稿をしていないことを案じられておられる方がいらっしゃるということを、この度ある方から教わったのですが、私はいたって相変わらず元気です。体調を崩しているわけではございません。
私がここのところ投稿していない理由はただ一つ、以下のような抗議の意味を込めて中止しているだけです。
そのうち、私も再開したいとは思っております。
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《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
先に私は、 このようなアンフェアな実態はもはや看過できない重大事だと思っているので、近々機会があれば意を決して当事者に直接このことを問うてみたい…。
と述べたのだが、「念ずれば通ず」という諺がピッタリで、何とそのような機会にめぐりあえた。それは過日(平成27年10月11日)、私は盛岡のとある会合で宮澤賢治の血縁のA氏と同席できた。私は小心者であるが、一世一代の勇気を振り絞ってずばりお願いをした。
賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕120年でもあり、そろそろ公にしていただきい。
と。するとA氏からは、 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という意味の、極めて核心を突く重大な意味合いを持つご返事を頂いた。それはこのご返事からは、やはり、賢治宛来簡はないわけではなかった。今でもある。
といういことがこれで100%確かなものとなったからである。
ついては、奇しくも来年は賢治生誕120年であり、そのためのイベントも行われるということだからそのメインイベントの一つとして、まずは手始めに、この柳原からの来簡を是非公開していただきたい。聞くところによると、現在『宮沢賢治記念館』が所蔵しているという賢治が書いた手紙の本物は、それこそ賢治が柳原に宛てたいわゆる「最後の手紙」が唯一だという。だからなおさらに、
来年の賢治生誕120年のイベントの際に、この柳原に宛てた最後の書簡と、それに対応する柳原からの賢治宛来簡をセットで公開していただきたい。
このようなことが実現したとすればどれだけ素晴らしいことだろうか。私は考えただけでも胸がわくわくする。そしてその後は、所蔵している賢治宛来簡を随時公表していってほしい。そうすれば、賢治研究の飛躍的な大発展をもたらすことは火を見るより明らか。私は切にそれを願う。そうすれば、「濡れ衣を着せられた高瀬露」に関する残された問題点<*1>も決着がつくはずだ。なお、私はこのことを広く訴えたいので、この投稿がいつもこのブログのトップにある状態にしておくために、しばらく投稿は封印することとした。
<*1:註> それが露宛であることの確たる裏付けも示さず、また検証もせぬままに、「高瀬あてであることが判然としている」書簡下書が新たに発見されたと嘯いて『校本宮澤賢治全集第十四巻』がそのことを活字にしたという理不尽により、それまでは実名が明らかでなかった捏造された<悪女伝説>が<高瀬露悪女伝説>にすり替わって、一瀉千里に全国に流布することはある意味当然の帰結であったであろう。
ではその捏造された<露悪女伝説>を流布させてしまった過半の責任はどこにあるか。私は勇気を奮って次のように正直にはっきりと言う。それは、森の「昭和六年七月七日の日記」にもあると考えられるが、少なくとも<悪女>の名は実名にしていないから救いがあるのでそうではなくて、露の帰天を待って前述したような「理不尽」を行った『同十四巻』にあると言わざるを得ない。実名を公表する以上、同巻は為すべき検証等をせねばならなかったのにそれらを殆ど為していなかったということが拙論「聖女の如き高瀬露」(『宮澤賢治と高瀬露』所収)で明らかになったはずだからだ。
しかし、実は全くそうではなかったのかもしれない。なぜならば、件の書簡が「高瀬あてであることが判然としている」と『校本全集』が断定するからには、その典拠がないわけがないからだ。というのは以前、賢治が下根子桜で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについてどうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
すると考えられることは唯一、対応する賢治宛の露からの来簡が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したのかもしれないということだ。もしそうだったとすればこの拙論は呆気なく破綻することがあるかもしれない。だが、それで真実が明らかになるのであれば私は潔く兜を脱ぐ。ただし、そのような来簡があるというのであれば、要らぬ誤解を生まぬように同巻は初めっからそのことを明示しておくべきだった。なおもちろん、それもこれも、対応する賢治宛の露からの来簡が存在していればの仮定の話にすぎないのだが。
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