みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第73回岩手芸術祭に入賞はしたものの

2020-10-04 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
《『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)の口絵写真より》

 この度の、第73回岩手芸術祭「県民文芸作品集第51集」の「文芸評論部門」において、私が応募した作品、
     宮澤賢治の「稲作と石灰」について
が入賞し、「奨励賞」が貰えるという。ありがたいことだが、少し気になる。それは、私がこの度応募した論文「宮澤賢治の「稲作と石灰」について」のようなものを、かつて誰かが公にしたことがあるのだろうかということがだ。浅学寡聞故にか、私は未だ出会ったことがない。

 さて、この論文はこうして始まるものである。

  宮澤賢治の「稲作と石灰」について
                     鈴木 守
一 はじめに
 私は『みちのくの山野草』というブログを開設している。その中で、ここ暫くコンスタントに閲覧数の多いのが「稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない」というタイトルの投稿(平成二九年一月七日)に対してである。
 ちなみに、その内容の概略は次のようなものだ。

 かつて満蒙開拓青少年義勇軍の一員であった、滝沢市在住の工藤留義氏から、「稲は酸性に耐性がある」と私は教わった(平成二八年九月七日)。
 そこで、早速農林水産省のHPを見てみたところ、「3 土壌のpHと作物の生育 3-1 作物別最適pH領域一覧」という表が載っていて、
    イネ:最適pH領域は 5.5~6.5 弱~微酸性の広い領域で生育
となっていた。
 さて、一体なに故にこの投稿に対しては閲覧数が多いのだろうか。

二 知らないのは私たちだけ?
 私自身は、この「稲は酸性に耐性がある」ということを教わった瞬間、ショックだった。それまではこんなことを夢にも思ったことなどなかったからだ。そして次に、先の表「3」を眺めながら改めてショックに襲われた。同表には、pH7より大きな値が最適土壌である作物など何一つ載っていないということにも驚いたが、それよりもなによりも、「稲は酸性に耐性がある」がやはり正しいのだということを思い知らされたからだ。というよりは、より精確には、
 稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、稲の最適土壌は弱~微酸性(pH5.5~6.5)である。………①
が実は本当のことであったと知ったからである。
 そこで私は、先の投稿に対しての閲覧数が多い大きな理由は、この投稿内容に対して私と同様なショックや戸惑いを感じている方が少なからずいるからに違いないと推察した。ついては、この投稿をした責任上、この件に関しての論考を書かねばならないのだと決意した。

 いずれ、この論文のつづき等についてはおいおい当ブログでも公にして行きたい。

《追記》 この度、本論文
      宮澤賢治の「稲作と石灰」について
を当ブログにおきまして、その全文を公にしました。クリックすれば御覧いただけます。

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《出版案内》
 この度、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

を出版しました。
 本書の購入を希望なさる方は、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
 なお、岩手県内の書店における店頭販売は10月10日頃から、アマゾンでの取り扱いは10月末頃からとなります。
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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (佐藤)
2020-10-06 19:44:43
受賞おめでとうございます!
返信する
コメントありがとうございます (佐藤 様へ)
2020-10-06 21:05:14
佐藤 様
 コメントありがとうございます。

 この応募作品は、仮説検証型研究によって、

  賢治は、「稲の土壌の最適pH領域は5.5~6.5である」という事実を知らなかった。

という事実を明らかにしたものです。
 したがって、賢治は稲の最適土壌は中性であり、ただし酸性の耐性はあると思っていたわけですから、それは間違いだったということを私は指摘してしまったことにります。
 延いては、「石灰岩抹といわぬ日はなかった」と言われている花巻農学校時代、無料で肥料設計をしてやったという羅須地人協会時代、貧しい農民にタンカルを安く豊富に供給し、それによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやったと言われている東北砕石工場時代の、それぞれの定説の根底を少なからず崩してしまったことになります。

 しかし、奨励賞ですからそれ程の評価はされていないと言えます。ということであれば、私が今回の作品で論じたことを既に公にした研究家がいたということになりそうです。  しかしながら、私にはそのような研究家は誰一人見つけることができずにおります。
返信する
Unknown (山本)
2020-10-17 19:24:24
初めて書き込みをさせていただきます。
岩手芸術祭奨励賞の受賞、おめでとうございます。
私は専門的なことはわからないのですが、とても興味深い内容と存じます。

ところで今回のご指摘の、「稲の最適土壌は弱酸性から微酸性」という知見は、宮沢賢治が生きていた当時にも、わかっていたことなのでしょうか。
初歩的な質問で恐縮ですが、お教えいただければ幸いです。
返信する
ご訪問いただきありがとうございます (山本 様へ)
2020-10-18 06:53:58
山本 様
 お早うございます。
 この度は、拙ブログをご訪問していただきありがとうございます。
 さて、お問い合わせの件につきましては、申し訳ないのですが、ズバリとはお応えはできません。「稲の最適土壌は弱酸性から微酸性」であるということが判ったのはこの年だということを明言している論考等を、私はまだ見つけられずにいるからです。
 逆の言い方をしますと、

 「稲の最適土壌は弱酸性から微酸性」という知見は、宮沢賢治が生きていた当時には、わかっていなかったという蓋然性が頗る高い。

と私は判断しております。
 そこで拙論では、下掲の項「六 仮説の定立と検証」において、次のように述べてあります。
**************************************************
 六 仮説の定立と検証
 そこで私は、次の
〈仮説:賢治は、「稲の土壌の最適pH領域は5.5~6.5である」という事    実を知らなかった。〉………④
を定立し、その検証をする必要があると覚悟した。
 その定立の主な理由は三つ。まず一つ目は、先に述べたように、
 賢治はこの「本当のこと〝①〟」を高橋にはたして教えていたのだろうかとか、はたまた、そもそもこの事実を賢治は知っていたのだろうか、という疑問と不安を私は抱いてしまった。
からである。二つ目は、同様、
 賢治の石灰岩抹施用の理論は定性的な段階に留まっていて、残念ながら定量的ではなかったので完全なものではなかったようだ。
と述べたが、これである。そして残りの三つ目が、
 先の『土壌要務一覧』における記述〝②〟から、賢治は「稲は酸性に耐性はある」ものの、望ましいのはあくまでも中性であると認識していたということが導かれるが、この認識は「本当のこと〝①〟」とは相容れない。
からである。
 そしてなによりも肝心なことは、ここまで調べて来た限りではこの仮説の反例は一つも見つからないから、この仮説は検証されたということである。従ってこの〈仮説④〉は、今後この仮説に対しての反例が見つからない限りはという、限定付きの「真実」となる。
 しかしもちろん、もしこの〈仮説④〉が正しいとしても、賢治のことは責められない。それは、おそらく賢治が生きていた時代には、「稲の土壌の最適なpH領域は5.5~6.5である」という事実はまだ世間には知られていなかったと推定されるからである。いみじくも、花巻農学校で賢治の同僚だった阿部繁が、

 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほんとうなのです。

と、後々当時のことを振り返っているが、この追想のようにである。  
**************************************************
 なお、今年の『県民文芸作品集』(刊行予定日 令和2年12月12日)に今回の作品は載りますが、拙論に興味がございましたならば、出品した際のものをプリントアウトしてお送りいたしますので、私のメールアドレス
  suzumamo@mx32.tiki.ne.jp
です、そちらの方にて山本様のご住所をお知らせ下さい。
                   鈴木 守
返信する
ありがとうございました (山本)
2020-10-19 14:28:58
鈴木守様、さっそくにお答えをいただきまして、ありがとうございます。

「「稲の最適土壌は弱酸性から微酸性」という知見は、宮沢賢治が生きていた当時には、わかっていなかったという蓋然性が頗る高い」ということ、了解いたしました。
また、貴論文をお送り下さるとのご親切なお言葉にも、感謝申し上げます。
上記のご説明と論文引用によって、私としては十分に理解できましたので、郵送のお手間をわずらわせずとも結構です。

ところで、貴論文と同様の研究発表は、これまで公にされていないようだとのことですが、もしも上記の知見が賢治の時代にはまだ判明していなかったのだとすれば、これがその理由ではないでしょうか。
すなわち、例えば賢治の死後に初めて発見された「X」という物質があったとしますと、賢治の時代にはまだ世界中の誰一人として物質Xについて知らなかったわけで、賢治もそれを知らなかったのは自明のことですから、わざわざ「賢治は物質Xを知らなかった」という内容の研究論文を書いて発表する人は、いないだろうと思います。
鈴木様も引用されているとおり、「宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません」ということかと存じます。

このたびは、ご丁寧な対応をいただきまして、ありがとうございました。
返信する
ご意見ありがとうございます (山本様へ)
2020-10-19 16:12:29
山本様
 またのコメントありがとうございます。
 ところで、私は

 しかしもちろん、もしこの〈仮説④〉が正しいとしても、賢治のことは責められない。それは、おそらく賢治が生きていた時代には、「稲の土壌の最適なpH領域は5.5~6.5である」という事実はまだ世間には知られていなかったと推定されるからである。

とは述べましたが、さりとて賢治には全然問題がなかったとは言っては居りません。
 それは、賢治は自身の石灰施用の理論には大きな問題を孕んでいるということに気付かねばならなかったからです。たとえばそれは、賢治が羅須地人協会時代に使っていた〔教材用絵図 四九〕からは、

 石灰を施与することはかえって害になるとか、せいぜい加えないことと同じだったということがある。………③

ということが導かれますので、賢治は当時の石灰施用の理論は不完全であったということに気付かなければならなかったはずだからです(もし気付いていなかったならば、賢治の目は節穴だということになってしまう)。
 そしてそこに気付いていれば、東北砕石工場時代のあのいいことずくめの宣伝広告「新肥料炭酸石灰」、

 この不景気の、まつ最中に、値段の高い、金肥を殆んど使はずに、堆肥や、緑肥で充分の収穫を得る良い工夫がございます。それには、炭酸石灰を御使用下さい。炭酸石灰は、土壌中の窒素や燐酸や、加里などの分解を助けて、其の効能を促進して有効に働かせるからであります。然し、消石灰や生石灰では、強すぎて、土地を痩悪ならしめます。
 炭酸石(ママ)(正しくは炭酸石灰:投稿者注)の効果
一、直接には石灰の肥料
 これは植物の栄養素として是非なければならない肥料分であるからであります。
一、間接には窒素の肥料
  …投稿者略…
一、間接には燐酸の肥料
  …投稿者略…
一、間接には加里の肥料
  …投稿者略…
            〈『新校本宮澤賢治全集 第十四巻 雑纂本文篇』(筑摩書房)163p~〉

をつくることには、良心の呵責がかなりあったはずです。

 言い換えますと、私は

 「賢治がX(=稲の最適土壌は弱酸性~微酸性であるということ)を知らなかった」という内容の研究論文を書いて発表する人」はいてしかるべきだ。

と思っています。
 それはもちろん、「賢治がX(=稲の最適土壌は弱酸性~微酸性であるということ)を知らなかった」となれば、結果的には賢治の石灰施用の指導の仕方は場合によっては、かえって稲の収量が落ちたり、折角金肥を使ったのに使わなかった場合と同じだったということが当然起こり得たたからです。
 ちなみに、高橋光一は羅須地人協会時代の次のエピソード、

 土地全體が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた時には、これも氣に入らず、表土一面真っ白になった樣子に、さも呆れて「いまに磐になるんぞ。」とか、「あれやぁ、龜ヶ森の會社に買収されたんだべ。あったな事すてるのは……。」とかさまざまでした。けれども私は負けませんでした。先生のおっしゃる事を信じていたからです。

を語っておりますが、過ぎたるは及ばざるが如しだったということになります。
 また、地元の著名な賢治研究家が、「賢治の言うとおりにやったならば稲が皆倒れてしまった、と語っている人も少なくない」ということを私に教えてくれました。

 ということで、

・「石灰岩抹といわぬ日はなかった」と言われている花巻農学校時代
・無料で肥料設計をしてやったという羅須地人協会時代
・貧しい農民に石灰岩抹(タンカル)を安く豊富に供給し、それによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやったと言われている東北砕石工場時代

の、それぞれの時代の石灰に関する現定説の根底が大きく揺らいでしまうわけで、賢治は自分では米一粒も作らなかっのですが、それでも稲作指導者としては高く評価されてきたわけですが、どうもそうとは言いがたいので、抜本的再検証が必要だというこことを拙論は提起しているということになります。

 では反論をお待ちしております。鈴木 守
返信する
Unknown (山本)
2020-10-21 14:55:54
鈴木守様、詳しいご説明を賜りまして、ありがとうございます。
先日来、私の質問に懇切なお答えを頂戴しておきながら、「反論」などとは滅相もありませんが、折角ですのでとりあえず私の感じたところを、申し述べさせていただきます。
(以下では、鈴木様が「蓋然性が頗る高い」と述べておられるところに従い、「稲の最適土壌が弱酸性から微酸性であるという知見は、賢治の時代にはまだ知られていなかった」という前提で、書かせていただきます。)

上のご説明を拝読して、鈴木様の今回の応募論文の主旨は、(1)「上記の知見を賢治が知らなかった」ということを指摘するだけでなく、(2)「賢治がその知見に自力で気付くことができなかったのは問題だ」と主張することにもあったということを、理解させていただきました。
確かに、(1)については、当時未知の事柄であれば自明のことなので、わざわざ論文にする必要はないわけですが、(2)は、鈴木様の独自の主張かと存じます。

ただここで、(2)に関する私の個人的な思いを述べさせていただくと、何であれ科学的な発見を成し遂げた人に対しては、相応の賞賛がなされてしかるべきでしょうが、逆に発見ができなかった人に対して、そのことを問題にしたりあげつらったりするというのは、ちょっと酷ではないかという気がします。

賢治の時代にも、大学農学部・高等農林学校や、全国各地の農事試験場においては、多くの農学研究者が日夜研究に励んでいたでしょうし、日本の中心作物である稲については、とりわけ力が注がれていたと思います。
それにもかかわらず、それらの研究者の誰一人として、当時はまだ上記の知見を明らかにすることができなかったわけです。
そのような事柄について、地方の農学校教師と工場嘱託技師を数年間していただけで、研究設備も持っていない人間が、自力で新たな発見をできなかったとしても、それは無理もないことだろうと、私には思われます。
(私は詳しくはありませんが、稲の土壌の最適pHを明らかにするためには、例えば土壌pHだけ少しずつ変えて他の条件を同じにした田圃をいくつも用意して、そこで何年も栽培実験を繰り返すなどしなければならないのではないでしょうか。)

確か賢治は、東北砕石工場の技師に就任する際に、恩師の関豊太郎博士に意見を聞いた上で決断をしたと思いますが、あえてこのような手順を踏んだことも、賢治が決して安易に自分の思い込みだけで石灰肥料の販促に走ったわけではなく、それなりに慎重に事を進めようとしていたことを、物語っていると思います。
工場技師就任を打診された時点で、賢治は高等農林を卒業してから相当の年数が経っており、それまで農学研究の最前線にいたわけでもなく、また自分で研究を行える環境にもなかったので、自分が石灰肥料を農家に精力的に勧める事業に従事してよいものかどうか、関博士の意見も聞いた上で判断しようとしたのでしょう。
関博士は、おそらく当時の日本で農業土壌学の最高権威ですから、賢治は尊敬するその恩師の「お墨付き」が得られたからこそ、工場技師として石灰肥料の普及に尽力してみようという決断を、下したのだと思います。
後世から見ると、関博士も含めた当時の石灰施用理論には不完全な部分もあったわけですが、この時点で賢治としてとった行動には、問題があったとまでは言えないのではないでしょうか。

いずれにしましても、(2)の評価に関しては、御説のように「賢治が気付けなかったのは問題だ」という厳しい見方をする向きもあるかもしれませんが、「当時としてはやむを得なかった」という判断もありうるだろうと、私としては思います。

おこがましいことを長々と書きつらねてしまいましたが、ご容赦下さい。
返信する
まずは「宮澤賢治の「稲作と石灰」について」をご覧になってからにして下さい (山本様へ)
2020-10-21 15:44:14
山本様
 反論ありがとうございます。
 私から申上げたいこともありますが、こうなりましたならばその前に、まずは今回の論考
   宮澤賢治の「稲作と石灰」について
を読んでくださいとお願いします。折角拙論をお送りしようといたしましたが、それも望まずに、まだその一部しかご存じない段階での今回のコメントを見て、これ以上話し合うのは時期尚早でしょう。
 つきましては、今年の『県民文芸作品集』の刊行予定日は令和2年12月12日ですので、そこに掲載された拙論をどうぞ御覧下さい。そして、その上でまた是非反論して下さい。お待ちしております。
                          鈴木 守
返信する

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