では今度は上田哲の主張についてである。
今回は『図説宮沢賢治』からで、同著には同氏の次のような論考が載っている。
1.「賢治をめぐる女性たち」
それは「賢治をめぐる女性たち――高瀬露を中心に」というタイトルのもので、次のようなことなどが論じられている。
この上田哲の論考からは教わることが多い。とりわけ、露に関することに対する私のとるべき態度と心構えについてである。
今までいくつかの資料を見てきてたしかに上田の主張するように、
一方では、
なおこの上田哲の論考においては、おそらく上田が高瀬露本人から得た証言と思われる次の2点に特に留意しておきたい。
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今回は『図説宮沢賢治』からで、同著には同氏の次のような論考が載っている。
1.「賢治をめぐる女性たち」
それは「賢治をめぐる女性たち――高瀬露を中心に」というタイトルのもので、次のようなことなどが論じられている。
…(略)…このうち高瀬露について流布している話は、かなり歪められて伝えられているので再考したい。
彼女が夜となく昼となく訪ねて来たのに困った賢治が、自分を癩病だといって顔に灰を塗ったり、「本日不在」のはり紙をして彼女を遠ざけようとした話がある。
また、彼女があるとき羅須地人協会でライスカレーをつくっていると、肥料設計の依頼に数人の百姓が来て彼女を見てびっくりしたので、賢治は困って百姓たちにご馳走し、自分は「食べる資格がない」と言ってそのまま二階に上がってしまった。彼女はひどく腹をたてオルガンを乱調子に鳴らしたので賢治が「昼はお百姓さんたちがみんな働いてる時だから止して下さい」といましめたという話がある。
それぞれいくらかのちがいはあるが大筋は同じ内容で、森荘已池をはじめ数人の人びとによって伝えられてきた。しかしこれを書いた人びとはライスカレー事件の現場を見たことも、灰を塗った賢治の顔を見たことも、賢治が自分は癩病だと高瀬に語っているのを聞いたこともないのである。さかのぼっていくと羅須地人協会に出入りしていた高橋慶吾という情報源にたどりつくのである。
これらの話は賢治の生前から高橋慶吾によって花巻の人びとや賢治ファンの間に広く伝えられていた。…(略)…
高橋の話にはさらに尾ひれがつき、賢治が布団を贈ったので喜んだ彼女が賢治との結婚の準備をはじめ、世帯道具を買い整えたり、新居のための家を借りたりしていたとか、果ては、結婚できなかったのを怨んで賢治の中傷をして歩いたとか、全く裏づけのないうわさで拡大され、小倉豊文の言葉を借りれば高瀬露は<賢治に対して「押しかけ女房」的痴態にも及んだ「悪女」>とされているのである。
不思議なことに、多くの人は、これらの話をなんらの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け入れ、いわば欠席裁判的に彼女を断罪している。
…(略)…彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。これは彼女がキリスト者であったことによるのかもしれない。…(略)…
彼女がある時期賢治に対し、異性としての愛情をもたなかったとはいわないが、生涯彼を精神上の指導者として純粋に敬慕していたこともたしかである。高瀬露が高橋慶吾の紹介で、はじめて賢治を訪問したのは一九二六年の秋であった。そして、一九二七年の夏のはじめ、賢治から「誤解を受けないために一人では、来ないように」と言われ、信用されないことを悲しく思ったが、以後訪問を遠慮するようにしたという。
彼女は菊池暁輝主幹の宮沢賢治の会に参加し、機関誌『イーハトーヴォ』の第四号(一九四〇年二月)、第十号(九月)に、賢治を称え偲ぶ短歌を発表している。また、その年の九月、勤務校の図書室を会場に菊池暁輝を講師に迎えて、遠野ではじめての賢治の集いを開いている。その後も何回か賢治を偲び文学を語る集いをしている。
関登久也は「賢治素描(五)」(『イーハトーヴォ』第十号)の中で、賢治が<亡くなられる一年位前>訪ねて来て、<賢治氏知人の女の人が賢治氏を中傷的に言ふので><賢治氏は私に一応の了解を求めに来た>と述べている。
賢治が関を訪問、<知人の女の人>が賢治の中傷をしていることについて誤解されないよう了解を求めたことを否定しないが、賢治は、その女が中傷している現場を見聞したのではなく、賢治を中傷している女がいるという人の話を、信じただけのことである。
関は、あからさまに高瀬露とはいっていないが、多くの人はそう受けとめている。しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。
また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。そして新婚早々の生活に満足していたのである。
彼女が夜となく昼となく訪ねて来たのに困った賢治が、自分を癩病だといって顔に灰を塗ったり、「本日不在」のはり紙をして彼女を遠ざけようとした話がある。
また、彼女があるとき羅須地人協会でライスカレーをつくっていると、肥料設計の依頼に数人の百姓が来て彼女を見てびっくりしたので、賢治は困って百姓たちにご馳走し、自分は「食べる資格がない」と言ってそのまま二階に上がってしまった。彼女はひどく腹をたてオルガンを乱調子に鳴らしたので賢治が「昼はお百姓さんたちがみんな働いてる時だから止して下さい」といましめたという話がある。
それぞれいくらかのちがいはあるが大筋は同じ内容で、森荘已池をはじめ数人の人びとによって伝えられてきた。しかしこれを書いた人びとはライスカレー事件の現場を見たことも、灰を塗った賢治の顔を見たことも、賢治が自分は癩病だと高瀬に語っているのを聞いたこともないのである。さかのぼっていくと羅須地人協会に出入りしていた高橋慶吾という情報源にたどりつくのである。
これらの話は賢治の生前から高橋慶吾によって花巻の人びとや賢治ファンの間に広く伝えられていた。…(略)…
高橋の話にはさらに尾ひれがつき、賢治が布団を贈ったので喜んだ彼女が賢治との結婚の準備をはじめ、世帯道具を買い整えたり、新居のための家を借りたりしていたとか、果ては、結婚できなかったのを怨んで賢治の中傷をして歩いたとか、全く裏づけのないうわさで拡大され、小倉豊文の言葉を借りれば高瀬露は<賢治に対して「押しかけ女房」的痴態にも及んだ「悪女」>とされているのである。
不思議なことに、多くの人は、これらの話をなんらの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け入れ、いわば欠席裁判的に彼女を断罪している。
…(略)…彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。これは彼女がキリスト者であったことによるのかもしれない。…(略)…
彼女がある時期賢治に対し、異性としての愛情をもたなかったとはいわないが、生涯彼を精神上の指導者として純粋に敬慕していたこともたしかである。高瀬露が高橋慶吾の紹介で、はじめて賢治を訪問したのは一九二六年の秋であった。そして、一九二七年の夏のはじめ、賢治から「誤解を受けないために一人では、来ないように」と言われ、信用されないことを悲しく思ったが、以後訪問を遠慮するようにしたという。
彼女は菊池暁輝主幹の宮沢賢治の会に参加し、機関誌『イーハトーヴォ』の第四号(一九四〇年二月)、第十号(九月)に、賢治を称え偲ぶ短歌を発表している。また、その年の九月、勤務校の図書室を会場に菊池暁輝を講師に迎えて、遠野ではじめての賢治の集いを開いている。その後も何回か賢治を偲び文学を語る集いをしている。
関登久也は「賢治素描(五)」(『イーハトーヴォ』第十号)の中で、賢治が<亡くなられる一年位前>訪ねて来て、<賢治氏知人の女の人が賢治氏を中傷的に言ふので><賢治氏は私に一応の了解を求めに来た>と述べている。
賢治が関を訪問、<知人の女の人>が賢治の中傷をしていることについて誤解されないよう了解を求めたことを否定しないが、賢治は、その女が中傷している現場を見聞したのではなく、賢治を中傷している女がいるという人の話を、信じただけのことである。
関は、あからさまに高瀬露とはいっていないが、多くの人はそう受けとめている。しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。
また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。そして新婚早々の生活に満足していたのである。
<『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵等共著、河出書房新社)92p~より>
2.上田哲から教わることなどこの上田哲の論考からは教わることが多い。とりわけ、露に関することに対する私のとるべき態度と心構えについてである。
今までいくつかの資料を見てきてたしかに上田の主張するように、
「このうち高瀬露について流布している話は、かなり歪められて伝えられている」
のであり、とりわけ 「不思議なことに、多くの人は、これらの話をなんらの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け入れ、いわば欠席裁判的に彼女を断罪している」
であると私もつくづく思ったし、そう思っている。そしてそれにも関わらず、 「彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった」
ということに対して私は、露は健気だったと思うとともにその毅然たる態度に感心する。併せてこのような態度こそ、露が〝悪女〟でないことの一つの証左でなかろうかとも感じた。また、 「彼女のキリスト者としての生活はきびしく、子女のキリスト教教育も立派なものであったと彼女を知る人びとは口をそろえていう」
というような周囲の人々からの露に対する評価は、露は〝悪女〟どころかそれとは全く正反対の女性であったということを物語っているとも言えないこともない。少なくとも〝露を知る人びと〟にとっては。一方では、
「賢治は、その女が中傷している現場を見聞したのではなく、賢治を中傷している女がいるという人の話を、信じただけのことである」
という上田の判断も、以前触れた佐藤勝治の「賢治二題」が同様なことを指摘していることもあり、あながち否定できないようだ。なおこの上田哲の論考においては、おそらく上田が高瀬露本人から得た証言と思われる次の2点に特に留意しておきたい。
(1) 高瀬露が高橋慶吾の紹介で、はじめて賢治を訪問したのは一九二六年の秋であった。そして、一九二七年の夏のはじめ、賢治から「誤解を受けないために一人では、来ないように」と言われ、信用されないことを悲しく思ったが、以後訪問を遠慮するようにした。
(2) 露は「事実でないことが語り継がれている」、とはっきり言った。
ということに。 (2) 露は「事実でないことが語り継がれている」、とはっきり言った。
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