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奇矯な賢治(『新校本年譜』によれば)

2014-01-12 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『新校本年譜』によれば
鈴木 それにしても、ある時期までは、それもおそらく少なくとも昭和2年の6月頃までは露と親しく交際していたと思われる賢治が、ある時期から突如露を拒絶するようになり、あまつさえ、「レプラ」であるなとという詐病をなぜ賢治はしてしまったのだろうか。
吉田 はっきり言って、よりによってそのような病名で「詐病」することはいくら賢治といえども許されないことだし、僕らだってその病名の言葉を安易に使うことももちろん許されることではないが、今回は宮澤賢治に関する研究ということで特別に許して貰うのだということをまず認識した上で話しを続けようじゃないか。
荒木 あっ、そういうことなんだ。俺無知だったな、これからは気を付けよう。
鈴木 ではそのようなことも注意せなばならないから、その辺のことをどう扱えばいいのかということを知るためにも、いわゆる『新校本年譜』がどう書いているかを見てみよう。
荒木 おぉ、それはいいな。
ということで、当該の個所を見てみるとそこには次のようなことが記載されていた。
 高瀬は関徳弥夫人ナヲと同級生だったので賢治が言ったという「癩病」云々を告げ、これが一部のうわさとなった。賢治は関家を訪い、ことの真実を語って誤解をといた。うわさは父の耳にも入り、「おまえの苦しみは自分で作ったことだ。はじめて女の人とあったとき、おまえは甘いことばをかけ、白い歯を出したろう。女の人とあうときは、歯を見せたり、胸をひろげたりしてはいけない。」と法華経安楽行第一四のことばで戒めた。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)360p~より>
するとそれを見ていた吉田が言った。
吉田 そうかうっかりしていた。僕はついつい「旧校本年譜」の記載内容の方を覚えていたので他の記載事項もあるのかと思っていた。ところが今は、『新校本年譜』の上段にはこれしか書かれていないのか。
 鈴木済まんが「旧校本年譜」を見せてくれ。
と言うので、私は『校本宮澤賢治全集第十四巻』を手渡すと、吉田は次のようなことが記載されている当該の頁を開いて荒木に見せてやった。
 高瀬露(一九〇一<明治三十四>一二月二九日生、一九七〇<昭和四五>二月二三日没)は当時湯口村鍋倉の宝閑小学校教訓導。妹タキも同じ学校に勤めたことがある。一九二四、五(大正一三、四)年ころ、農会主催の講習会がたびたびあり、農学職員が同小学校で農民を指導したので、賢治と顔見知りであった上、花巻高女音楽室で土曜午後にしばしば行われていた音楽愛好者の集いに出席していた。この集まりは藤原嘉藤治(独身で若い女性のあこがれだった)を中心に演奏をし、レコードを鑑賞し、音楽論をたたかわす楽しい会で、賢治は授業がすむと必ず現われ、藤原とのやりとりで女性たちを興がらせた。賢治が独居自炊をはじめた下根子桜の近く、向小路に住んでいた関係もあり、洗濯物や買物の世話を申し出たという。クリスチャンで教育者であり、明るく率直な人柄だったので、羅須地人協会に女性のいないこともあり、劇のけいこなどには欠かせない人であった。…(投稿者略)…しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。顔に墨を塗って「私はライ病ですから」といい、高瀬はあまりの仕打ちに同級生であった関徳弥夫人に訴え、それを知って関家に釈明にいき、父から説教を喰う結果となった。彼女との関係、立場などは書簡下書(書簡252a~c、本巻二八頁~三五頁)で察することができる。高瀬は後幸福な結婚をした。
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)624p~より>
荒木 そうか、ここにはあった「顔に墨を塗って」などは、『新校本年譜』の上段にはないのか。
鈴木 そうなんだ。『新校本年譜』の上段にはこれしか書いていない。かつて「旧校本年譜」にあったその他の関連事項についてのいくつかは、もはや下段に移されてしまったから、それらについては筑摩も確証がないのでそうしたと思われる。
吉田 それにしても、『新校本年譜』は
 高瀬は…賢治が言ったという「癩病」云々を告げ、これが一部のうわさとなった。賢治は関家を訪い、ことの真実を語って誤解をといた。
と断定しているが、この典拠は何なのだろうか? 荒木は知らないか。
荒木 よせやい、吉田が知らないのに俺が知っているわけねぇだろう。鈴木はどうなんだよ。
鈴木 私もそのようなことを断定できるほどの証言も資料も全く持ち合わせがないが、おそらく、『校本宮澤賢治全集』の年譜担当者である堀尾青史が得た何らかの典拠があるのではなかろうか。できれば、それらは私たちにも公にして欲しいけどな。
 とまれ、これからは筑摩に見習って例の賢治の行為は
   ①(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
   ②顔に灰を塗って露と会った。
   ③別な部屋に隠れていた。
   ④私は「癩病」ですと露に言った。

と訂正して、お詫びします。
荒木 いや待て待て、大きな問題がある。『新校本年譜』は先のような記載の仕方をしているのだから、この4つのうちの最後の行為
   ④私は「癩病」ですと露に言った。
だけをほぼ認め、少なくともその他の3つについては実際にあったとは判断していない。俺たちの判断と筑摩の記述とではあまりにも大きな違いがあるという大問題が。
吉田 そうだよな、この溝は大きいな。大きすぎる。……とすれば、この溝は溝として保留しておき、それぞれの場合について考えてみるということかな。
 いや待て、僕たちの場合には4項目、筑摩の場合には1項目しかないが、この筑摩の判断に基づいて先ずは考えてみよう。もしそれで上手くいかなかったならば、その時はその時だ。そもそも、4項目であろうとそれが1項目であろうと、賢治に対しては厳しい言い方になるが、どちらの場合にしても賢治の行為が奇矯であったことに違いはないのだから。
鈴木 4つの場合でも1つの場合でも、それは量的違いであり質的な違いはないと言えるか…。

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