簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

石部宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-06 | Weblog

「京立ち 石部泊まり」



 京・三条大橋かから大津の間は三里(11.8㎞)、大津から草津の間は
三里半六丁(14.4㎞)ある。そして草津から石部までは、二里半十七丁
(11.7㎞)、更に石部から水口までは三里半(13.7㎞)ある。



 当時の人は健脚を誇り、一日に10里(40㎞弱)は歩くと言われていて、
京都を朝出発すると、石部には夕方陽が暮れるまでには到着することから
このように言われた。流石に更に水口までは無理で、江戸へ下る旅人の多
くは、石部を最初の宿に選んでいた。



 近江国甲賀郡石部(いしべ)は「後ろの山を いそべの山といふ」と、
江戸時代の旅案内にある事から、昔は「いそべ」とも呼ばれていた。
 宿の成立にも諸説有り、信長の統治下には近隣五か村が統合され、既
に「石部町」が形成されていて、何時頃からか定かではないが、今日で
はほぼ「いしべ」との呼称に統一されている。



 東海道51番目の宿場、石部の宿内人口は1600人余り、家数が458軒、
その内旅籠は32軒有った。京に近く貴人達にとっても最初の宿泊地と
しての需要が多く、本陣は幕府直轄と膳所藩直轄の小島本陣と三大寺
本陣の2軒が有った。

 人口比では男性が800人余りで女性より僅かに多く、都に近く貴人の
宿泊も多く、公を憚ってか、宿場に遊女はいなかったらしい。



 旧道は左程広くは無く直線的である。沿道に立つ家屋は、平入りと
妻入りが入り乱れ、その中に比較的新しい家屋等も多くある。
町並に統一感は無く、何となく猥雑な感がする町である。

 それでも所々では漆喰壁、虫篭窓、格子戸のある古い家等も見られ、
そこそこに宿場の雰囲気は感じられる。
旧道沿いには、清酒・香の泉を造る竹内酒造もある。(続)





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東の見附(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-04 | Weblog


 近江国石部宿は、現在の湖南市に有る。
東の甲賀市との市境は国道1号線の泉西交差点辺りで、西は名神高速道
路の通る辺りが栗東市との境である。
この間10㎞余、旧東海道が市域を貫いている。


 
 その為同市では、旧街道を挟んで、道路境界から25mの範囲を「東海
道沿道地区」と定め、景観造りに務めている。
「百年先にも誇りをもって住み継ぐことのできる美しい景観」
「宿場町に暮らす人々の“営み”と“おもてなし”が行きかう人々の心とも響
き合う」そんな景観づくりが方針という。



 柑子袋集落で、南無妙法蓮華経の石柱を見て、上葦穂神社の参道入口
を過ぎ、その先で広野川(落合川)を越えると、いよいよ石部宿の東入
口見附で、橋から300m程西進した辺りに有ったという。
 説明によると道路の中央辺りまで迫り出した幅3m、高さ2m程の土
塁が築かれ、木戸(所謂枡形城門)が有り、番兵が通行人を厳しく見張
っていたという。



 その先には「吉姫(よしひめ)神社」がある。
創祀年代は分かっていないらしく、元は現在の御旅所の地に、斎き祀ら
れていたと言う。
現在の地に斎祀再建されたのは、天文3(1534)年のことである。
ここから凡そ1㎞西に有る「吉御子(よしみこ)神社」とは、女神(上
社)・男神(下社)という対の関係にあたる。



 毎年5月1日の「石部例大祭」になると、二つの神社からそれぞれ神輿
が担ぎ出される。当日は本殿で祭典があり、引き続き分霊を神輿に移し
て行列を整え、両神杜を10時頃に出発し、御旅行に向かう。
大神輿、子供神輿が神社に戻るのは、夕方6時頃で、その間氏子中を巡
行するそうだ。(続)





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うつくし松(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-01 | Weblog

 頻りに「うつくし松」と書かれた案内板を目にするようになった。
説明によると、「平松に自生する赤松の変種」らしく、「根から放射状
に出て傘を開いたような美しい形の松で、大小二百本が群生している」
という。



 大正10(1921)年、国の天然記念物に指定された松は、南900m程の
美松山(227m)の麓にある。 当地にいつ頃から見られたのか、その
発端は分からないが、「松の葉細く、艶ありて、四時変せず蒼々たり」
と言われる松が自生していた。



 江戸時代には観光名所として、東海道を行き交う旅人も、寄り道をし
て愛でたらしい。昭和天皇も自生地に御幸されたと伝えられている。
 松はこの場所にしか無く、「隣山は常の松にして、美松一本も無し」
と言われ、他所に移し、鉢植え等にするとすぐに枯れてしまい、どうい
う訳か、ここでしか育たないらしい。



 松にはこんな伝説もある。
「平安時代、病弱な藤原頼平が静養のために当地を訪れた。
有る時突然数人の天女が木々の間から舞い下り、京都西山・松尾明神の
使いで、頼平様をお護りするためにやってきたと言う。



 頼平は感涙にむせぶが、ふと我に返ると天女は何時しか消え、周囲の
松は見たこともない美しい姿に変わっていた。
 驚いた頼平が文徳天皇に報告すると、天皇は勅使を派遣して事の真実
を確かめ、美し松と命名した。」



 平松には、道中奉行に任命された高木伊勢守が領し、陣屋が建てられ
たが、その後建物は取り払われ、跡地が残されている。

 次の柑子袋(こうじぶくろ)集落の西端左側には、「上葦穂神社」が
鎮座していて、参道入口を示常夜灯が一対建っている。(続)





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