簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

網浜駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-02 | Weblog


 始発駅の国清寺から南に向けて歩き始めると、やや東に曲がって県道
45号線に合流し、暫く県道を進むと旭東町の交差点に到る。
駅から「零哩五分」の地点である。湊と桜橋間が廃止され、国清寺まで
延伸された折に開設された網浜駅がここら辺りにあった。



 「哩」はマイルと読み、1哩=1760ヤード=1.609㎞だ。
従ってこの駅までの距離は0.8㎞となり、今日の東山プールの辺りに駅
が有った事になる。

 当時の駅周辺の観光案内では、東八丁に「芭蕉天神」があり、又網浜
は備前八景の一つとされ、藩主の池田光政公が旭川の岸辺に遊び、詩を
読まれたところと伝えられている。



 東に八丁(0.9㎞程)は、今日の門田本町であるが、「芭蕉天神」が何
所なのか、良く解らなかった。
 又、この備前八景は、「網濱夕照」「湊村清嵐」「平井落雁」「濱野
夜雨」「常山暮雪」「上寺晩鐘」「高嶋秋月」「北浦歸帆」で、藩主・
池田綱政公が詠まれた詩に由来している。 



 今日の旭川右岸、国道30号線と県道40号が交差する十日市交差点の辺
りから南は、太古の昔吉備の穴海と呼ばれる美しい海が入り込んでいた。
旭川が大量の土砂を運び込む吉備の穴海は、水深の浅い遠浅で、室町期
より頻りに干拓が試みられている。



 江戸は寛永年間に入ると平福、福島、米倉、浜田、福富、泉田、福成
など旭川右岸が干拓され、新田が次々に開かれている。
光政公が岡山城主として入封するのは寛永9(1632)年の事で、この時
代旭川左岸の網浜では、穴海の名残の残る風光が見られたのであろう。(続)






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