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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

湊駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-06 | Weblog


 荒神社をかすめて南に向かう鉄道は、何となく線路跡と覚しき形態を
残す市道を進み、その先で再び県道45号に合流する。
更に県道を進むと左手に浄土真宗の専光寺が有り倉安川北交差点に到る。



 丁度この辺りが、国清寺駅より一哩(1.6㎞)の地点で、ここに湊駅が
有ったらしい。その交差点の北東角に、復元された駅名標示板がある。
 三蟠鉄道湊駅跡と薄く書かれているが、ここが駅の有った場所と言うの
ではなく、専光寺の辺りとも、新道元町のバス停辺りとも言われ、どこに
あったのか今では特定は難しいらしい。



 太古の時代は、瀬戸内海が深く入り込んだ吉備の穴海の一部で、この地
には湊が有り、神功皇后による三韓征伐の折船を繫いだと伝えられている。

 当時は「春の湊」と呼ばれていたが、後々には干拓で埋めたてられ、新
田開発がされると春を省き、ただ単に湊と呼ぶようになり、今日まで地名
として伝え残されてきた。



 神功皇后は、「古事記」や「日本書紀」に登場する伝説的な人物だ。
神の予言を授かった24歳(?)の皇后は、崩御した天皇の御子を身籠
もる身ながら海の向こうの新羅に出兵、三韓を平定したとされている。

 因みに県内では東部の西国街道の宿場町、三石の「三石神社」にも、
皇后に纏わる「孕み石伝説」が残されている。



 鉄道は県道の東側を通るが、直ぐに県道を離れその西側に入り込む。
この辺りも岡山市の都市計画道路(旭東線、現在の岡山県道45号)との
重複区間で、建設に伴い線路用地の提供が求められた場所のようだ。
 経営の苦しかった会社は鉄道敷の買い上げに応諾し、鉄道経営を断念、
結果廃線に追い込まれた。(続)





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桜橋駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-04 | Weblog



 旭東町交差点で県道45号線はやや左に曲がるが、鉄道は逆の右方向に
進路を取る。角のコンビニの駐車場を斜めに横切り、その南の住宅街へ
と入っていく。コンビニの東側、南に向かう狭い一車線の通りを行くと
荒神社があり、当初はこの辺りで南から来た線路が西に大きくカーブし
て終着の桜橋駅に向かっていたらしい。



 そこには、岡山ガス会社への引き込み線が有り、燃料となる石炭を運
んでいた。北側には鐘淵紡績岡山工場も有り燃料を運んでいたらしいが、
専用の引き込み線が有ったかは良く解らない。
 因みに岡山ガスは今でも当地に本社と工場を構えているが、カネボウ
の跡地は住宅団地に変わっている。
 


 国が後押しする軽便鉄道敷設は全国でブームとなっていた。
そんな中、大正4(1915)年8月に開通した「三蟠鉄道」は、その後京
橋に近い国清寺まで延伸され、路面電車との接続が叶う。
これに伴い、湊と桜橋の間は開通から僅か7年半で廃線となり、駅も廃
止され駅舎は解体され再利用される事になる。



 宇喜多直家により山陽道が付け替えられ、城下を流れる旭川には京橋
が架けられたが、それ以外の橋が架けられる事は無かった。
旭川は水運の要で、舟運の妨げになる為である。



 下流の橋は、嘗て鉄道の駅が有った北側に、昭和35(1960)年桜橋が
架けられるまで待つことになる。
その3年後には、京橋の下流に新たな2号線の新京橋も架けられた。



 昭和47(1972)年には、更に下流に国道2号線岡山バイパスの旭川大
橋が、平成4(1992)年には最下流に岡南大橋が架かかり、今では下流
に4本の橋が旭川を跨いでいる。
そして今は、桜橋の下流に5本目の橋の工事が進められている。(続)



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網浜駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

2023-10-02 | Weblog


 始発駅の国清寺から南に向けて歩き始めると、やや東に曲がって県道
45号線に合流し、暫く県道を進むと旭東町の交差点に到る。
駅から「零哩五分」の地点である。湊と桜橋間が廃止され、国清寺まで
延伸された折に開設された網浜駅がここら辺りにあった。



 「哩」はマイルと読み、1哩=1760ヤード=1.609㎞だ。
従ってこの駅までの距離は0.8㎞となり、今日の東山プールの辺りに駅
が有った事になる。

 当時の駅周辺の観光案内では、東八丁に「芭蕉天神」があり、又網浜
は備前八景の一つとされ、藩主の池田光政公が旭川の岸辺に遊び、詩を
読まれたところと伝えられている。



 東に八丁(0.9㎞程)は、今日の門田本町であるが、「芭蕉天神」が何
所なのか、良く解らなかった。
 又、この備前八景は、「網濱夕照」「湊村清嵐」「平井落雁」「濱野
夜雨」「常山暮雪」「上寺晩鐘」「高嶋秋月」「北浦歸帆」で、藩主・
池田綱政公が詠まれた詩に由来している。 



 今日の旭川右岸、国道30号線と県道40号が交差する十日市交差点の辺
りから南は、太古の昔吉備の穴海と呼ばれる美しい海が入り込んでいた。
旭川が大量の土砂を運び込む吉備の穴海は、水深の浅い遠浅で、室町期
より頻りに干拓が試みられている。



 江戸は寛永年間に入ると平福、福島、米倉、浜田、福富、泉田、福成
など旭川右岸が干拓され、新田が次々に開かれている。
光政公が岡山城主として入封するのは寛永9(1632)年の事で、この時
代旭川左岸の網浜では、穴海の名残の残る風光が見られたのであろう。(続)






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