数々の殉難の歴史を秘めた旧信越本線の碓氷峠の66.7パーミルという急な
勾配では、列車の退行事故も度々あったようだ。
明治34年7月に、横川駅を発車した7両編成の列車が、サミット手前の最後の
トンネルを抜けたその時、大きな音と共にカマノ焚き口から赤い炎と白い蒸
気が勢いよく噴き出し、石炭を投入しょうとしていた機関助手を直撃した。


機関室には白い蒸気が立ちこめ辺りが見えない中で、機関士は必死で、手探
りで探り当てた非常ブレーキをかけた。
しかし爆発で蒸気圧の下がった蒸気ブレーキ(当時の主ブレーキ)はきかず、
急いでハンドブレーキをかけ列車をようやく停止させた。
そんな安心もつかの間、その後列車はゆっくりと退行を始め、あっという間に
その速度は次第に速くなり先ほど潜り抜けたトンネルを逆行で抜けようとした。


この頃になって異変に気付いた乗客が車内で騒ぎ出した。
たまたまこの列車に乗り合わせた当時の日本鉄道会社副社長は、このままだと
谷底に落下すると判断し、皆に避難を勧めながら自らが先頭に立って列車から
飛び降りた。同乗していた息子もそれを見習い続いて飛び降りた。


しかし副社長は不幸にも車輪に巻き込まれ、息子はトンネルに激突して死亡
した。目の当たりに惨劇の目撃者となった乗客は、色を失い、なすすべも無い
まま恐怖におののいたが、ようやく列車は減速し2㎞ほど退行したところで停
車し安堵の胸を撫下ろしたという。
こんな退行事故は結構起きていたらしく、中には犠牲者が出た事故も報告さ
れている。「アプトの道」には、このような鉄道に纏わる逸話を紹介するパネ
ルも所々に掲げられている。(続)


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