現在岡山市内には当時の海岸線や島を彷彿させる地名がたくさん残っている。
それは南部の岡山平野が、その昔は「吉備の穴海」と呼ばれるように、瀬戸内
海が入り込む遠浅の美しい海であったからだ。
その瀬戸内海に向け、県下三大河川と言われる吉井川、旭川、高梁川など
が流れ込み、河口一帯はそれによって運ばれた土や砂がたまり、広大な湿地
や干潟を形成していた。
そのため当地では、安土桃山時代から江戸時代、さらに近代にかけ、大規
模な干拓による新田の開発が盛んに行われてきた。古くは宇喜多秀家による
早島近辺の開墾を始め、江戸時代に入ると藩営の事業として大規模に行われ
るようになる。
岡山藩主・池田光正に重陽された陽明学者・熊沢蕃山こそ「新田の障りに
なる」と消極的であったのに対し、岡山藩郡代・津田永忠の時代になると積
極的な干拓が行われている。
それらの結果江戸・寛永年間から慶応年間までの約240年で児島湾沿岸には
約6,800ヘクタールもの広大な新田が造成されたそうだ。
明治になるとその事業は大阪の豪商・藤田伝三郎に引き継がれ、第二次世
界大戦の前まで続けられた。偉業は今日までその地名として残されている。
更に戦後になると農林省の国営事業として引き継がれ、その造成は4,239ヘク
タールにも及んでいる。
それらの新田での営農に必要な水を確保するために、児島湾を締切り淡水
化し、最大水深9m、平均水深1.9mの児島湖が昭和32年に誕生した。
(出典:「児島湖ハンドブック」平成25年3月岡山県より)(続)
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