それは、「鳥羽街道」である。
この街道は京の都の南、東寺の西に位置する羅城門から、途中鳥羽を抜け淀へ
と至る道で、ここからは大阪街道(京街道)が大阪まで通じていて、「京・大阪街道」
と総称されていた。
このことからこの道は、伏見街道や竹田街道とともに、京・大阪を往来する主要
な街道であり、その途中に淀の宿場町が置かれていたことになる。
元々大阪と淀を結ぶ間は、淀川を利用した舟運が発達していたことから、淀には
港も開けていた。この淀を結節点として、その対岸の八幡(石清水八幡宮)から東
高野街道が延びていても不思議ではない。
こんなことから、京都から淀を経て高野山に到る道を「高野街道・京大阪道」と呼ん
でいたようだ。
東寺から「鳥羽街道(旧千本通り)」を通り、淀を経て、宇治川と木津川を渡り対岸
の石清水八幡宮まで、その距離は20キロメートルほどである。
ここから「東高野街道」と呼ばれる河内長野までは、56キロメートル、ここで「西高野
街道」と合流し、「高野街道」と呼ばれる道となり高野山下の九度山までが25キロメ
ートルほどの道程である。
ここから高野山に上るルートは幾つも有り、その代表的な道が世界遺産にもなっ
た「町石道」で有り、江戸時代の主要な登山道であった「不動坂道」である。
何れも高低差数百メートル、距離凡そ20数キロメートルの登山道である。
今回の歩き旅は、その昔京の都人がたどった「高野街道・京大阪道」を、京都の
東寺から歩いてみることにする。
(写真:四国遍路道・鴇田峠超え)(続)
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この街道は京の都の南、東寺の西に位置する羅城門から、途中鳥羽を抜け淀へ
と至る道で、ここからは大阪街道(京街道)が大阪まで通じていて、「京・大阪街道」
と総称されていた。
このことからこの道は、伏見街道や竹田街道とともに、京・大阪を往来する主要
な街道であり、その途中に淀の宿場町が置かれていたことになる。
元々大阪と淀を結ぶ間は、淀川を利用した舟運が発達していたことから、淀には
港も開けていた。この淀を結節点として、その対岸の八幡(石清水八幡宮)から東
高野街道が延びていても不思議ではない。
こんなことから、京都から淀を経て高野山に到る道を「高野街道・京大阪道」と呼ん
でいたようだ。
東寺から「鳥羽街道(旧千本通り)」を通り、淀を経て、宇治川と木津川を渡り対岸
の石清水八幡宮まで、その距離は20キロメートルほどである。
ここから「東高野街道」と呼ばれる河内長野までは、56キロメートル、ここで「西高野
街道」と合流し、「高野街道」と呼ばれる道となり高野山下の九度山までが25キロメ
ートルほどの道程である。
ここから高野山に上るルートは幾つも有り、その代表的な道が世界遺産にもなっ
た「町石道」で有り、江戸時代の主要な登山道であった「不動坂道」である。
何れも高低差数百メートル、距離凡そ20数キロメートルの登山道である。
今回の歩き旅は、その昔京の都人がたどった「高野街道・京大阪道」を、京都の
東寺から歩いてみることにする。
(写真:四国遍路道・鴇田峠超え)(続)
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