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following Kuniyoshi to Osaka-Minami 3

2011-05-20 | trip
***国芳と行く大阪3***
 御堂筋方面へ歩き、途中再び南へ下り道頓堀を千日前の方まで行くと、人形が呼んだのでしょうか、工事中の囲いの間に竹本座跡を見つけました

ここは飲食店の大きな看板が目を引く一番の繁華街。カメラで街並みを撮っている人も見かけましたが、これに気付く人はいませんでした。あれ?国芳親分どこ行きやしたか。

ああ、そこでしたか。お疲れさんでした。ではわたくしはこのへんでおいとましやす。大坂の後、駿府、お江戸と長丁場の絵画会ご成功お祈りいたしやす。

     
 展覧会の図録の解説に、実際に国芳を見たことある人物の話が載っていました。明治・大正の実業家で大倉財閥の創始者が、少年の頃狂歌を習っていて、その師匠の家で国芳を見かけたというのですが、その話が揮っています。
 “ある日師匠の家へ出かけていくと、半纏を着たとびの者がやって来て「ネエさんこれ一本借りて行きやすよ」と師匠の奥さんに言って、台所の漬物桶から大根を一本つかみ出し、鼻唄まじりて帰って行った。「あれは何ですか?」と尋ねると「あの方は国芳さんですよ」と奥さんは別に呆れた顔もしなかった。”
というエピソード。この方が14,5歳から狂歌をたしなんでいたそうなので、仮に14歳だとすると1851年で国芳55歳の時のお話です。前年に月岡芳年が弟子入りしているので、既に高名な絵師であったのに、何とも庶民的で気さくな人柄だというのがわかります。 国芳の画は、所狭しと沢山の人物、あるいは動物が描かれ、その中には国芳も紛れ込んでいたりします。どれも表情が違っていて主役となるものも脇役のものもエキストラも手抜きなしに描かれています。表情豊かな金魚の絵からは金魚への愛情が感じられ、見ていると心が和みます。国芳はあらゆるものに愛情もって接していた人だという事が絵を見て解ります。そして、そんな国芳はみんなから愛されていたのだと思います。

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